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私の辞書で
私には私の辞書があります。
私の辞書、と呼ばれるこれは、「自分にとってそれが一体なんなのか、どう見えるのか、どう考える対象のか」を埋めていく極めて個人的な私の脳内の一冊のこと。
広辞苑が10年に1回改訂されるように、私の辞書も日々アップデートされていきます。
国語辞典に反抗するためのものではありません。たまに反抗するかもだけど。
国語辞典は私の辞書制作において大事な手引きです。先輩。同じ大学の違うサークルの先輩、みたいな。大学行ってないから分からないけど。
私は、私の辞書には血の通った言葉たちを載せていきたいなっていつも思う。
だってさ、なんかさ、思考や体感(≒体験)が伴わない言葉ってまじで血通ってなくない?
なんかそういう言葉ってすぐ気付かれちゃうよね。
言葉の音と見た目と一般的な意味だけ集めるだけ集めて、そのどれもがはりぼてでぼてぼてだと、
何かを伝えたいとき、伝えなきゃいけないとき、言葉はおかしくないはずなのに面白いくらい誰にもなにも伝わらなかったりする。
喋ってるけどそれ言葉というかもはや音だな。みたいな。色々書いてるけど言葉っていうかもうそれもはや線だな。みたな。
何かを伝えたいとき、そんな風に思われたら嫌だというか困るよ。
それに、いざという時に自分自身を納得させてあげられなかったりする。
でも、ちゃんと思考して体感して得た言葉を持っていれば、もし一人ぼっちになった時、自分自身にかけてあげられる声がより力強くなって、前に進む力をくれるよね。きっとそうだよね。
私にとって、激ヤバ世界を生きていくうえで大事なのは思考すること体感することで、それはほんとーーーーーーにもう絶対そうで、どれだけ血が通ってるかって話なわけで、無理して賢い言葉で言語化する必要なんてどこにもないって思ってる。
それに私の辞書は、堅い必要もなければニュートラルである必要もない。めっちゃ偏ってていい、むしろ偏ってるほどいい。
それこそニュートラルな定義は国語辞典先輩がやってくれてますし。
でも"必要がない"ってだけだから、時には堅かったりニュートラルだったりもすることもある。
自分の思考体験に基づく自分の言葉ならいつだってそれが正解なのだ。
どう、自由でいいでしょう。
でもこの自由さは強さを生むんだよ。
私、人生の悲しいことも嬉しいことも全部見逃さずに体験したいし体感していかなきゃって思う。
つらくても全部食らって、吐き出しそうになっても噛み砕いて飲み込んで自分の言葉に変えて口から出すんだ。
そういう生き方していけば、自分にとって自分がいちばん頼りのできる人間になっていく。強さになっていく。生きていく基盤になっていく。
なんなら誰かのことを救っちゃうかもしれない。
その為にも、すごく自分流に、自分の五感はたまた語感でラフに、たまにストイックに私は私の辞書を埋めていきたいし、
私の辞書で、血の通った言葉でいつだって誰かに私に何かを伝えていたいな。
おわり。
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