コミュニケーション


子供の頃から人とのコミュニケーションがあまり得意じゃなかった。


しかし俗に言うコミュ障を自認しているわけではない。そもそもコミュ障という言葉自体あんまり得意ではない。のでもう使わない。


私は「喋れない」のではなく「喋りたくない」人だった。


幼少期はベビーシッターさんにお世話をしてもらう事が多かったのだけど、もれなく全員に悪態をついていた。

ご飯、トイレ、何から何まで一日中お世話してくれる方に対してすらひたすらに「気安く話しかけて欲しく無い」という不敬な念を抱き、殆どの会話を拒否していたのを今でも覚えている。

北澤佑扶4〜5歳。一体何様であろうか。

今幼少期にタイムスリップしたら、ベビーシッターさんの動向一つ一つに「すみません本当ありがとうございます、、」と、何度だって頭を下げまくるだろうに。

遊びも専らブロックやパズルなど一人で完結できるものを好んでいた。


そういった素質を持って生まれて来てしまったが最後、

思春期になれば案の定学校生活でしくじり、昼休みはよく机に突っ伏して40分も寝たフリをしたものだ。

自業自得で回って来た孤独というツケを他人に悟られる事を恐れ、悩みに悩んで編み出した打開策が「寝たフリ」とは。苦し紛れにも程がある。

ちなみに便所飯の試行期間もあったが、衛生面の観点から正式採用には至らなかった。

そしてなんとか進学可能な出席日数(年間の1/3)に達したのち、不登校二歩手前の日々を送る事となる。
不登校になりきれないあたりが私という人間を物語っているようで心疾しいが、まぁここは話を盛って嘘付かない正直な性格を盛大に褒めて欲しい。


そんなこんなで破滅的思考に振り回されながら毎日をさバイブしていたわけだが、
振り返ればある意味あれはあれでギリギリ青春だったのかもしれない。ギリ青春。



しかしだ、仲良しコミュニケーションだけが人類の正解ではない。
もちろん仲が悪いとなればそれは「悪い」という言葉の通りあまり良いことでは無いのだろう。多分。



25歳になり仕事柄沢山の人と色々な場面で協力する事が多く、そのおかげもあってか、他人を慮り感謝する心を手に入れる事に無事成功した私ではあるけれど

未だに他人と関わる時は薄らと線を引いて相手の様子を伺わずには居られない。

そこから線を取っ払ったり、しっかりと濃い線を引き直したり。


そこにある昔の私との決定的な違い。

それは、
今私が設けている他人との隔たりが、「相手を敵とみなす為のもの」ではなく「お互いがお互いの世界を守りながら健やかに生きる為のもの」であるという事。


そう。私は98度くらい変わったのだ。もうベビーシッターさんに悪態をつくようなマネはしない。「まだあまり親しくはない」という事を理由に一線を引く可能性はあるが、きちんとベビーシッターさんという職業を尊重し、必要なコミュニケーションは取るし感謝もする。



そもそも心とは見境なく誰にでも許していい物ではないからね。

とにもかくにも、私は今の生き方がいちばんしっくり来ている。今までの道を振り返れば、現状の自分が不便だからといって180度変わる必要など全くもってないのだと思える。

ちょっと捻ればだいぶ変わる。


そんなところ。


昔付き合ってた恋人から、別れ際に

「ゆうほって友達少ないよね」

という謎の小学生的捨て台詞をお見舞いされた事があるのだけど、


それに関してはうるせぇとしか言いようがない。

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