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Cabbage 2

《your side》
どんな家に住むことになるのか?という最大の心配事が思いがけず良い方向に解決して、つい涙腺が緩んでしまった。自分で思ってたより、だいぶ追い詰められてたみたい。
急に泣いたりしてギョンスさんを驚かせてしまったけど、すかさずハンカチを差し出してくれたりして、朴訥に見えて意外とスマート。

「お恥ずかしい」

エヘヘと笑って誤魔化しながら「洗ってお返しします」とハンカチをポケットにしまう。
と、ギョンスさんからの反応が無い。 ん? 見上げると大きな目を見開いたまま瞬きもせず固まっていた。厚くて形の良い唇がポカンと開いている。

「あの…」

ギョンスさんの目の前で手をヒラヒラしながら声をかけるとハッとしてから咳払いをして眼鏡をクイッと押し上げた。

「あ、あぁ、その…えっと…何か、何か必要なものはありますか?何でも言って下さい!とりあえず布団だけは運んでありますけど」
「えぇっ!布団!?嬉しい! 急だったから引っ越しの手配が間に合わなくて、しばらく寝袋覚悟だっんです」
「それは良かったです」
「布団は大家さんの計らいですか?親切な方だなぁ〜。どんな方ですか?」
「いえ…来客用の布団なら沢山あるので」
「へ?」
「その…大家は僕です。ここは曾祖父母の隠居所だった建物で…ちなみにそこに見えるのが僕の家です」

道を挟んで反対側にある黒っぽい古民家を指差す。
こっちの家がト○ロのお父さんの書斎風だとしたら、あっちはまっくろくろすけが出てくる母屋風。古くて重厚だ。

「えぇ~、家が近いってこういうことだったんですね!何から何までお世話になります!」
「いえ、こちらこそ住んでくれてありがとう」
「え?」
「え?あぁ、こっちの話です」

とりあえず荷物を運んでしまいましょう、と言ってそそくさと車に戻ってしまった。

※・・・※・・・※

玄関先まで重いリュックを運んでくれると、

「えーと、それじゃ僕は一旦役場に戻りますね。困ったことがあればいつでも言って下さい。後でもう一度伺います」

そう言い残して爽やかに去って行った。

一人になって改めて家の中を見てみると、やっぱりすごくお洒落な家。全体的に古びてはいるし、ペンキを塗り直さなきゃいけない所もあるけど、それが返って良い味になっている。使われていたのは何年位前?このセンスの持ち主ってどんな方だったんだろう。

荷物を解いて仕事道具のパソコンやカメラを作り付けのデスクに配置すると慣れない空間の中でもそこだけは自分の場所になった。

家の中を歩き回って足りない物をリストアップしていく。
まずはカーテン。部屋の印象を決めるから妥協は出来ないな。ネットの方が色々選べるかなぁ。次は家電。仮住まいだし大袈裟にはしたくないけど、冷蔵庫は絶対いるよね。あと洗濯機。電子レンジは欲しいけど我慢?リビングにはローテーブルとラグも欲しいな。レトロなタイル張りのお風呂場には洗面器とバスチェアが必要。シャンプー類も買わないと。キッチン用品も一から揃えなきゃ…あー、楽しくなってきた。けど、お金かかるな。どこまで経費で落ちるんだろう。

ひと息ついてお茶でも飲もうとキッチンを見ると、ヤカンも無ければマグカップも無いことに気付く。そりゃそうか。仕方ないので持っていたペットボトルのお茶をチビチビ飲みながら夕飯はどうしようかと考える。ギョンスさんにヤカンを借りて、念の為持って来たカップラーメンでも食べるか。侘びし。

※・・・※・・・※

昼間はポカポカと暖かかったのに、日が陰り始るとあっと言う間に寒くなる。取材で色んな所に行ったけど、山の夜の早さには今だに慣れない。
以前、先輩のミンソクさんにポツリとそんな事を漏らしたら「何年アウトドア畑にいるんだよ〜」なんて笑われたこともあったっけ。
ぶるっと震えて、持って来た少ない荷物の中からフリースを取り出して羽織る。夜になったらもっと冷えそう。

砂利道を車が走る音がしたので作業の手を止めてパソコンから顔を上げる。辺りは既に夕闇に包まれていて、こちらに走ってくる車のライトが見えた。車はギョンスさんの家の方に入って行く。
帰ってきた!またお邪魔しますって言ってたよね?ギョンスさんに会えるかと思うと嬉しくなって洗面所に走って鏡で前髪をチェックする。控え目にドアをノックする音がして、ウキウキしていることを悟られない様に小さく深呼吸してから、意識して作った落ち着いた声で「はい」とドアを開ける。

「おかえりなさい」
「えっ?あっ、あぁ…ただいま……です」

ちょっとびっくりしたように視線をキョロキョロする。あ、そっか、おかえりなさいは変だった?つい実家の習慣で言ってしまった。

「えー…と、足りない物分かりましたか?」
「それが沢山あって。生活の場をイチから作るってすごい大変ですねぇ」

玄関先に座り込んで、長ーくなった買い物リストを見せる。

「おぉ、これは確かに大変だ」

大きな目にグッと力を入れてリストに目を通す。

「冷蔵庫と洗濯機は僕が学生時代に下宿先で使ってた物が物置にあるので、もしそれで良ければ」
「鍋も食器も使ってないのが家にあるので持ってきます。お洒落なやつじゃないですけど」
「ローテーブル?小さいちゃぶ台ならありますよ」

ひとつひとつチェックしながら、家にある物は使っていいと言ってくれる。今日はずっとギョンスさんに感謝と恐縮ばかりしている。ギョンスさんにとっては仕事とはいえ、こんなに優しくしてもらったら勘違いしちゃうな。
私ってばチョロくない?大丈夫そ?

ギョンスさんの完璧なのに温かみのある横顔をポーっと眺めながらウン年振りの恋の予感に心がフワフワと浮き上がっていると、リストを最後まで読み終えたギョンスさんがつと顔を上げて

「明日、僕休みなので隣町に必要な物を買いに行きましょうか?」
「わぁ、良いんですか?すみません、お休みなのに。でも、すっごく助かります」
「大丈夫です。僕も買い物あるので気にしないで。では、明日10時頃出発しましょう」
「ありがとうございます!よろしくお願いします!」

それでは、と帰りかけたギョンスさん。はたと立ち止まると振り返って

「そうだ、今夜の夕飯はどうするんですか?」
「あー…今日はカップ麺で簡単に済ませようかと…」

なのでヤカンを貸して欲しいと言い掛けるとギョンスさんの眼鏡がキラリと光る。

「夕飯、お持ちします」
「えっ!?そんな!そこまでご迷惑掛けられません」
「大丈夫。少し待ってて下さい。ではまた」
「あの……ギョンスさん……待って……」

バタンと扉が閉まったかと思うと、またすぐに開く。

「アレルギーは?」
「あ、りません…」
「そうですか。では」
「…………」

なになに?ご飯の話になった途端急に押しが強くなったような?目がマジだった……何だったんだろ、ちょっと掴めない人かも。

※・・・※・・・※

ほどなくして、ギョンスさんが大きなお盆を持って戻って来た。

「簡単な物ですけど、どうぞ」

大きな目がキラキラと輝いている。心なしか息も上がっている気がする。
ものすごく急いで持って来てくれたのかな?

お盆には春キャベツと桜エビのパスタ、ブロッコリーとゆで卵の温サラダ、キャベツたっぷりのコンソメスープ、デザートのイチゴはちゃんとヘタまで取ってある。

「うわぁ〜、美味しそう〜。お母様にお礼を言わなくちゃ」
「え?」
「え?」

うそ…もしかしてお嫁さん?勝手に独身だと思い込んでた。
えー、ショックー…
お互いに少し固まる時間が過ぎて、ギョンスさんがフフッと笑う。

「僕は一人暮らしです。両親は別の街に」
「え!じゃあこれ…」
「はい。料理が好きで」

誇らしげにニコニコしている。可愛い。ギョンスさんと料理を見比べながら「わぁ〜〜」とため息が出る。

「彩りが綺麗だし季節感もバッチリ!しかも早い!スゴイです!」

実家暮らしで料理は手伝い程度の自分が思ったこと全部言って褒めると、照れたのか耳が赤くなっている。いやもう、ほんと可愛いな。

「たくさん食べて下さい」
「本当にありがとうございます。いただきます」
「では、また明日」

ペコリとお辞儀をして帰って行った。
また明日かぁ~、良い響き。

※・・・※・・・※

翌朝、約束の5分前。車が砂利を踏む音がしたので慌てて家を出ると、両家の間の道に車が停まっていた。運転席の窓をノックするとギョンスさんがスマホから顔を上げる。シンプルな白シャツにデニムがイメージ通りの私服。

「おはようございます。昨日はご馳走様でした。ぜーんぶ美味しかったです」
「それは良かったです」
「食器、洗ってから返しますね。まだ洗剤もスポンジも無いので。…フフッ」
「どうしました?」
「今日は軽トラじゃないんだなーと思って」

笑ってしまった勢いもあり、少しだけ勇気を出して冗談を言ってみた。

「あれは昨日だけです」

太い眉を寄せて怒った顔をして見せたかと思うとふにゃっと笑う。私もまた笑って、二人でクスクス笑い合った。あ、この空気感好きだなぁ。

「さぁ、乗って乗って」

初めての軽口が通じて、少し砕けた話し方になったギョンスさんに促されて助手席に乗り込む。私がシートベルトをするのを待って丁寧にアクセルが踏まれた。
車内には穏やかな洋楽が程よいボリュームで流れていた。

「昨日はよく眠れました?」
「いや、それが……山の夜って結構騒がしいですよね」
「風の音?」
「それもあるんですけど、何かの動物の声とか。ウトウトすると悲鳴みたいなのが聞こえてきて」
「あー、キツネかなぁ」
「慣れちゃえばどうってことないんでしょうけど」
「初めての場所ではなかなか寝付けないですよ。眠くなったら寝て下さい」
「いえ!そんな!」

せっかくのギョンスさんとのドライブ、寝たらもったいない。

「そうだ、スクーターなんですが友人が譲ってくれるそうなので、今日見に行ってみます?」
「本当ですか!嬉しいです」
「帰りに寄ってみましょう」

※・・・※・・・※

隣町のショッピングモールでは本当に何でも揃った。大型の荷物は配達にしてもらったけど、それでも大きくはないギョンスさんの車は私の荷物でいっぱいになった。ギュウギュウのトランクルームを二人で眺めながら

「すみません、こんなに積んでもらって。ギョンスさんの買い物が…」
「僕は買わなくても全然大丈夫。気にしないで下さい」

トランクを閉めながら安心させるように笑ってくれる。ギョンスさんも買い物あるって言ってたのに…もしかして、わざわざ私の為に車出してくれたのかな。こんなカッコいい人に親切にされたら好きにならないワケなくない?てか、私もうギョンスさんのこと好きだよね?好き認定でいいかな。会って二日目って早すぎ?長く恋愛から遠ざかっていたのでスピード調節の方法が分からない。

そのとき、轟音と共に春の突風が吹いて砂埃が舞い上がった。

「うぁ!車に入りましょう!」

ギョンスさんに言われて慌てて車に乗り込んだ。
風に煽られドアを閉めるのに苦戦する。

「すっごい風!」
「ですね!」

やっとの思いでドアを閉めてギョンスさんの方を見ると、眼鏡を外して目を擦っていた。

「ゴミ入っちゃいました?」
「んー……、大…丈夫」

パチパチと瞬きしながらこちらを振り返った。

…………いや、顔!
素晴らしいね、ドギョンス君!
分かってたけども!
分かってたけれども!!

眼鏡を外したギョンスさんは予想を大幅に上回って整った顔をしていた。まだ違和感があるのか、宝石の様な目をゴシゴシグニグニと荒っぽく扱うのでもっと丁寧に!とこちらがハラハラする。

初めて至近距離で見た素顔を信じられない気持ちで見つめていると、眼鏡をかけ直したギョンスさんにジッと見つめ返される。

1、2、3、4、5……

しっかりと見つめ合ってしまい心臓が跳ね上がる。

え?何?

突然の流れにドキマギしていると、視線はゆっくりと下に移動して私の唇の上で止まった。伏し目になったギョンスさんは何とも色っぽい。

何?何?
何この雰囲気!
キス?キスされるの??
ここで?真昼間のイ〇ンの駐車場で?
すぐそこにご家族連れとかいますけど?
私としてはやぶさかではないですけれども!ども!!

ギョンスさんの手が伸びてきて反射的にギュっと目をつぶる。もうどうにでもして!と覚悟を決めた瞬間

ツッ

唇の皮が引っ張られる馴染みのある感覚がして

「髪、食べてますよ」

ギョンスさんの低い声がした。
え? 目を開けると「ほらね」とばかりに細い髪の束をツンツンと引っ張られる。

「へ?あ、あぁ~、ハハ、ハハハ、ありがとうございまーす」

もう!もう!もう!もう!何て思わせぶりな!
あ、あんな目で見られたら誰だってそういうことかなって思うじゃん!
キスされるって思うじゃん!
ハッ!ギョンスさんにバレてない?
絶対、顔赤いよね!
うぁぁ~、恥ずかしいよ〜!

外に飛び出して転げ回りたい衝動を必死に押さえる。
昨日からギョンスさんには恥ずかしい所ばっかり見せてるなぁ、もぅ……

※・・・※・・・※
《Kyung-soo side》

風に煽られて口に入った髪を取ってあげたら真っ赤になって俯いてしまった。

…しまった、俺また間違えた?

その昔、ベクから「お前の距離感は危険」と注意されたことがある。
その時はどういうことか分からなかったけど、大学の時に同じサークルの子の告白を断ったら「その気が無いなら勘違いさせないで!」と泣きながらキレられてビンタされた。訳が分からなかった。そんなことがゼミでもあったし、バイト先でもあった。

どこがどう勘違いさせたのかよく分からなかったけど、告白を断るのも心苦しいしビンタは痛いしで、ベクの言う『距離感』をヒントに女子と物理的に距離を取るようにしていた。
こっちに戻ってからは仕事以外で女性と関わることも無くなって、うっかりしてた…

すいません

喉まで出かかったけど、一体何を謝るんだか分からなくて考え直した。

俯いた顔には髪がかかって表情までは分からないけど、桜色に染まった首を見て綺麗だなと思った。

そっか、肌が白いんだ。
耳も赤くなってるのかな?
どんな色になってるんだろう?
見てみたいな。

髪を退けようと手を伸ばしそうになるのを危うい所で自制する。それはダメだろ。伸ばしかけた手を引っ込めて、眼鏡を押し上げる。

俺、変だな。冷静にならないと。

「ギョンスさんっ!あ、あの、え、えっと……そう!スクーター!スクーター譲ってくれるお友達ってどんな方なんですか?」

こちらは全然冷静じゃないみたい。まだ元のペースに戻れないのか赤い顔のまま視線はキョロキョロ定まらないし、手もパタパタ動いて忙しそうだ。
これはどうしたって可愛いだろ。
フフと笑みが溢れて、温かい気持ちになる。

忙しなく動く手で髪を整えると、顔の横で素早くクルッと手を返して髪を耳にかける。

あ、真っ赤……。
露になった耳は、赤くて、熱そうで……美味しそう。
口に含んだらどんな感じがするんだろう。
彼女の耳を口に含む自分を想像して、思わず唾を飲む。
あぁ、俺は何てことを考えてるんだ。
冷静になれ。

「ゔぇっほん!あー、えっと、高校からの友人でベッキョンという男です。この近くで美容師をしてます。そろそろ行ってみましょうか」

平静を装ってはみたものの、内心かなり動揺して心臓が煩い。
人様のことを「食べてみたい」と思ったのは初めてのことで、これは一体どういう感情なのか…。我ながら怖い。何だろうこの感じ…

※・・・※・・・※
《your side》

ベッキョンさんが働いているというお洒落な美容室に着くと待合スペースに通された。ギョンスさんと静かに待っているとフワフワと明るい髪色の男性が現れて

「お待たせ~。どうも~、ビョン・ベッキョンです。ベクちゃんって呼んでね」

可愛らしく小首を傾げながら右手を差し出してくる。わぁ、人懐っこいワンコみたい。

「ベクちゃんって…自分で言うか?」

ギョンスさんが引き気味にボソッと呟いたけど、聞こえなかったのか無視して続けるベッキョンさん。

「名前、何ていうの?髪キレイだね~。シャンプー何使ってる?カットモデルやらない?ギョンスに意地悪されてない?」

ベクちゃんさんのペースに巻き込まれながら、慌てて名刺を出して自己紹介をする。

「この度はスクーターを譲っていただけるそうで、ありがとうございます」
「うんうん、裏に停めてあるから見に行こっか〜」

自然に手を引かれて外に連れ出される。
あ!おい!! というギョンスさんの声がしたけど、またもや無視してどんどん進む。
バイク置き場にはオレンジブラウンとオフホワイトのツートンカラーのスクーターが置いてあった。

「じゃじゃーん!これがオレの愛車だったモンリョン号でっす」
「モンリョン?」
「オレんチの犬の名前」

四角い口でニカッと笑う。ワンコがワンコ飼ってるんだ。ついプッと吹き出してしまう。

「あ!今、犬が犬飼ってるとか思ったでしょ?オレには分かるゾ」
「いや、そんなっ、思ったけど…」
「ギョンスー!この子オレのこと犬って言うんだけどー!」
「うるさい駄犬」
「あっ、ヒドイ!ギョンスが意地悪言うー!」

ベクちゃんと話すと笑いが絶えない。ギョンスさんが友達の前だとちょっと乱暴な感じになるのも新発見。男の子っぽいノリが自然。

「おいくらで譲っていただけますか?」
「いらない、いらない!もう古いし、誰も乗ってなかったからさ」
「そういう訳にはいきません!」
「じゃあさ、カットモデルやってくれない?カラーもさせて?写真も撮らせて?」
「そんなことでいいんですか?いや、でも……」
「うん、じゃあ、こっちに住んでる間、オレに髪切らせて。ね?浮気はダメだよ」

薄くて赤い唇でニッと笑う。あれ?面白さに気を取られてたけど、この人も結構な美形なんじゃ……。

「おい、ベク、強制するな」
「いえいえ、いいんです!仕事忙くて何ヶ月もろくに美容院行ってないような人間で良ければ」
「絶対に可愛くしてあげるから」

ベクちゃんの手が伸びてきて髪に触れる。手つきはプロそのもので、髪質を確かめてるだけなんだろうけど急にされると心臓に悪い。

「わ、分かりました。よろしくお願いします」
「うん、後で連絡するね~」

結局、美容室を出る頃にはベクちゃん呼びが定着したし、手は握られたし、髪も触られたし、連絡先も交換した…
どれも自然な流れで意識する間も無かった。なるほど、これがコミュ力…

車に戻ると、ギョンスさんがハンドルを握ったままエンジンをかけようとしない。どうしたのかと覗き込んで様子を伺うと

「……連絡先、僕、まだですね」

低くボソボソとした声で聞き取れない位だった。前を見たままこちらを見ようともしない。
あれ?怒ってる?

「やだ!私、うっかりしてて!」

慌てて連絡先を交換すると、私のアイコンが増えた画面をじっと見ながら唇を巻き込むようにして噛み締めている。一見無表情だけれど、よく見ると押さえ付けられた唇の角が少し上がっている。

え?笑ってる?
私の連絡先聞いて嬉しいの?
じゃあ、さっきの不機嫌は拗ねてたってこと?
いや、そんな!私の思い違い?
いや、でも……もしそうなら……可愛いんですけど!

「それじゃ、帰りましょうか」

スマホから顔を上げるといつもの真面目なギョンスさんに戻っていた。

※・・・※・・・※

「明日は冷蔵庫とか洗濯機とか大きい物をそちらに移動しましょう」

日が傾き始めた帰り道、夕日に照らされてオレンジ色に染まった車内で見るギョンスさんの横顔は完璧すぎて映画の中の人みたい。

「せっかくのお休みなのに、本当にありがとうございます」
「いえ。友人のチャニョルっていう大男が手伝いに来てくれるそうなので、すぐ済みますよ」
「大男なんですか?」
「デカいですね」
「デカいですか」

二人でフフッと笑う。ギョンスさんとのこの空気感良いなぁ。
昨日ほとんど寝てないないせいか、温かいお茶を飲んだら急に眠くなってきた。さっきお茶を買いに寄ったコンビニでギョンスさんに何飲みますか?って聞いたら「水でいいです」って。言われた通りに水を買ったけど、いつも水なのかな?覚えとこ……家帰ったらこの大量の生活用品を配置しなきゃ………大変だぁ………………明日は冷蔵庫と洗濯機…………大男ってどの位?お相撲さん位?トトロみたい?お腹に乗せてもらえるかな〜………………ンフフフ………………………………  ………………

ブレーキが踏まれてガクンッという衝撃で目が覚めた。いつの間にか寝ていたらしい。
うぅ、またもや恥ずかしい所を。

「ごめんなさい、私寝ちゃったみたいで……」

寝ぼけた頭で体勢を立て直そうとモゾモゾすると

「そのまま寝てて」

ソッと肩を押されて背中がシートに付いたかと思うとギョンスさんが覆いかぶさってきた。

え? 何? え? え!?

突然のことに眠気は吹っ飛んで体が固まる。指一本動かせない。

「倒します」

へ?
リクライニングのレバーが引かれて、ゆっくり後ろに倒された。覆いかぶさった体勢のまま、至近距離で耳元で低く囁かれた。

「これでよく寝られます」

全身の血がブワッと沸き上がる。

寝られる?寝られるって言った?
どういう意味?そういう意味?
いや、そんな、ここ車だし、いきなり?最初から車?
ウソでしょ?え?え?

心拍数が上がり過ぎて呼吸すら上手く出来ない。
一人ハクハクしているとギョンスさんはスッと離れて、ご丁寧に後部座席にあった自分の上着を掛けてくれた。

「家までゆっくり寝て下さい」

何事も無かった様に運転に戻った。
ギョンスさん、寝るのはもう無理です。

※・・・※・・・※
《Kyung-soo side》

さっきまでチャニョルの話をしていたのに急に静かになった。
チラリと様子を伺うと、窓に寄り掛かってコックリコックリしている。頭が安定しなくてツラそうだ。
昨日、寝られなかったって言ってたもんな。

上司から「雑誌の記者が引っ越してしてくることになったから世話役よろしく」と言われた時は正直面倒だったし、都会風吹かせるタイプだったら嫌だなと身構えた。だけど現れたのは飾り気の無い学生みたいな人で、その上どこか頼りなくて拍子抜けした。
話してみれば良い人だったし、引っ越しが不安だったのか家を見て泣いたりして…あの時はびっくりしたけど、そんな姿がいじらしく思えてつい色々してあげたくなった。
サービス過剰なのは分かってる。でも、今は世話役という肩書に乗っかって何でもしてあげたい。

隣で眠る彼女の閉じられた薄い瞼は寝苦しいのか時々ギュッと力が込められる。ちょっと開き気味の唇は綺麗な色をしていて、今は完全に力が抜けているからきっと食んだら柔らかいんだろうな…

は?はむ?食むだって?
さっきから、どうした。

寝てる女性をそんな目で見たら失礼だろ。自分の頬にビンタする。ビンタの弾みで車が少し揺れて、不安定だった彼女の頭がカクンとなり髪の間から耳が露わになる。ついさっきこの耳を食べてしまいたいと思ったことを思い出して顔が熱くなる。

俺ってもしかして欲求不満なの?
いや、でも…職場の女性陣には何も思わないし、誰彼かまわずって訳じゃないはず…

じゃあ、彼女だけ?
彼女だから?
うん、そう。
この人だから食べてしまいたいんだ。

男同士の下世話な会話に出てくる「喰っちゃう」とは違った、もっと単純で原始的な欲求。丸ごと自分の中に取り込んでしまいたい。そんな感じ。

…あれ?そっちのがヤバいか?

これは多分、好きって感情なんだろうな。けど、好きになる時って「食べたい」とか思うものだっけ?もう長いこと恋だの愛だのとは無縁の生活だったから、人を好きになるってどんな感じだったか忘れてしまった。

考え事をしていたら赤信号に気付くのが遅れて少し強めにブレーキを踏んだ。
ガクッと体勢を崩して目を覚ます。

あっ、起きないで。

まだ寝ていて欲しい。
母性なのか父性なのか分からないけど、庇護欲が炸裂した俺は何とか起こすまいとやや強引に寝やすい体勢に持っていった。
結果、押し倒すみたいになってしまって、また距離感を間違えたかと焦ったけどまた眠ったみたいだし気にしてないはず。危ない、危ない。

Cabbage3に続く

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