【メルスト感想】ぼくとユーレイの7日間篇【ネタバレ注意】

こんにちは。

最近メルストは隠居気味だったのですが、推しの科学の国新ストーリー追加ということで読んできました。知る人ぞ知る『月刊癒術士特別号』で「科学の国のすゝめ」を書かせて頂いた者です。初稿20ページで編集長に怒られたのもいい思い出。

推敲するのもめんどくさいのでそのまま投稿しちゃいます。えい。

○あらすじ

まずは『ぼくとユーレイの七日間篇』のあらすじのおさらいです。大まかな流れとしては、ロイセン植物研究所に配属予定のシャーレリが自身の専攻分野に自信が持てず、非論理的な研究課題を掲げる自分にも自信が持てず悩み、そんな時に彼女の言うところのユーレイと出会い新たな気づきを得る、という内容でした。話数の題はシャーレリの日記の体でつけられているようです。

先に断っておきたいのですが、今回私はアニマを引くことができなかったため、アニマ・アニムスのユニストを読まずにこの感想・考察を書いています。久しぶりにメルストに貢いで40連はしたのですが勝利の女神は私を向いてくれなかったようです。というわけで、彼らのユニストを読んでいればこんなはずはない!という内容が混じるかもしれませんがやんわりとご指摘いただけますと幸いです。

○アニマとアニムスについて

アニマ(anima)は、ラテン語で、生命や魂を指す語である。(wikipediaより引用)

また、ユングの項ではアニマは「男性の無意識人格の女性的な側面を原型と規定した。男性が持つすべての女性的な心理学的性質がこれにあたる。」アニムスは「女性の無意識人格の男性的な側面を意味する。アニマと比べて集合的であり、男性が一つのアニマしか持たないのに対し、女性は複数のアニムスを持つとされた。女性が精神の中に類似の、男性的な属性と潜在力であるアニムスを持つと信じた」とされています。

アニマといえばアニミズム信仰も捨て置けません。コトバンクでは、アニミズムは「ラテン語の「気息」とか「霊魂」を意味するアニマanimaに由来する語で、さまざまな霊的存在spiritualbeingsへの侵攻をいう。霊的存在とは、神霊、精霊、霊魂、生霊、死霊、祖霊、妖精(ようせい)、妖怪などを意味する。」とされており、霊魂は「身体から自由に離脱しうる非物質的な実体=霊魂」と説明されています。

私はストーリーにおけるアニマは哲学的な意味よりも霊魂的存在(=ユーレイ)の意味合いが強いと思います。ただ、ストーリーではアニマとアニムスの二人を出しているので、どちらの要素も合わせているのかもしれません。アニマとアニムスは、最初多重人格なのではと疑いもしたのですが、アニマが最初にシャーレリが研究室を訪れた際「あ、おかえり」と発言しているので、この線はないと思います。

ストーリーにおけるアニマは、絵を描くことが好きな男性です。シャーレリの初訪問時、彼は「心の絵」を描いていました、多分彼の心がわからなくなってしまったアニムスに視覚化した心を見せようと絵を描いていたのではないでしょうか。

初登場時に「透明な壁なら 僕も映りやしない 証明できないなら どこにも存在しない 透明な記述式なら 僕にも見えやしない 僕には分からない 教えてくれ 何故……、」と歌っていますが、「何故」の後に続く言葉はなんだったのでしょう。100%妄想ですが、前者3つに対して疑問を提起しているので「何故僕は存在するのか」が近いんじゃないかなと思います。

○シャーレリにとってのユーレイ

シャーレリはストーリー中に『ココロは、謎めいている。人間の目には見えない。ぼくたちには分からない。ユーレイに聞いたら、教えてもらえるだろうか?この青くて透明で、不安定な。硝子みたいな、謎の答えを。』と考えています。視覚化できないもの、ということでココロとユーレイを同一視しているようにも見えます。

シャーレリは視覚化されないユーレイを実際に感知したことはありません。しかし、彼女はアニマを初めて見た際に彼を「ユーレイみたいだ」と形容しています。彼女はアニマに対してある種の親近感を抱いていますが、これは彼女にとっての肯定的なユーレイと考えられているためです。否定的なユーレイはぼく、肯定的なユーレイは、ココロとは何かを質問する相手。また、『ぼくの目の前で消えていくあの真っ青な絵が、あまりにも透明だったので ぼくはその人を、ユーレイだと思った。あんなにひたむきに、繊細に、ユーレイみたいな絵を描けるのは、ユーレイだけじゃないかと思ったからだー』と考えており、アニマがユーレイのようだったわけではなく、アニマの描く絵がシャーレリの思うユーレイに近かったようです。

シャーレリ自身の持つ否定的なユーレイは、「周りとは何か、違う気がした。人が一人ずつ違うことなんて、当然だって分かってるのに。ヘンなのかな、とか。おかしいかな、とか。何にだってそう思うぼくのココロが、ちょっとずつ、嫌になっていって。みんなはぼくのことを、そこそこ好きで、そこそこ嫌いだと思う。全部が好きでもないし、全部が嫌いでもない。こんなに真面目に、ぼくのことが好きになれないのは、ぼくだけだ。」と語られているように、マジョリティから異質で、誰からも特別認知されない存在を指しているように受け取れます。これは後述しますが、科学の国は彼らの求める人材へは手厚い援助をしますが、そうでない人々に対しては非常に冷たい国であることも影響しているように思われます。

○自分を好きになれない二人

シャーレリは、結局アニマから絵をもらった後もすっきりせず、元々自身を嫌いになった要因である「ユーレイみたい」であることに対し、彼女を支援するチェルカールに誠実に励ましてもらった後も自分を好きになれないことに違和感を覚えています。彼女は「不安定でぐらぐらしてる」自分が嫌いだと言います。

アニマは、心を「僕の絵は、心そのものってわけじゃない。心の揺らぎなんだ。水面に差す光みたいな、刹那的で、流動的な、永続しない波。絵が人の心を動かすのは、描かれているものが、その揺らぎだからだと思う。その揺らぎを、目に見える形にできるからだと思う。(中略)揺らいでるから、キラキラしてる。透明に輝く硝子みたいに見える。君の目に見えなくても」と表現しています。これはシャーレリの「失敗するのは、ぼくが納得できない、というか。ぼくが嫌になるって、いうか……、」と言う発言に対して「君のことが、嫌いになる?(中略)僕にもその気持ち分かるよ」に続けられたものです。アニマ自身は、「不安定でぐらぐらしてる」のは心があるのだから当たり前のことで、それについては肯定的なようです。しかし、彼は「失敗する自分を嫌いになる自分」に共感しており、彼はマジョリティと同じように研究者の道へ進もうと心が思えなかったことを失敗だと感じているのかもしれません。しかし、この時の「揺らいでるからキラキラしてる」心を肯定する彼の言葉が、シャーレリの心を救うきっかけになりました。

3度目のシャーレリの訪問の際には「何故息ができるんだ 怖がってるくせに 心臓の鼓動すら 疎ましいくせに 静かにしてくれ 僕だって邪魔だ ユーレイみたいに 証明されてない 僕から認められてない……、」と歌っており、ダイレクトに自殺願望を匂わせています。彼にとって彼は、「自分に認められていない」から、存在を証明されないユーレイと自分を重ねているようでした。

この後、シャーレリが『ユーレイみたいに、ぼくら自身を愛せない。』と語るように、ユーレイとは自身の存在を視覚化して認知できない=自分自身を愛することができない者を指しているようです。

アニマを救ったのは「ぼくたちが自分を好きになるためには、たくさんの人の助けと、長い時間が必要らしい。だから、僕たちが悩んでることは、自然なことなんだ。苦しくても、おかしくはないんだよ」というシャーレリの言葉でした。

○シャーレリとアニマの自己否定について

ここからは500%妄想の話になります。

二人の自己否定については、正直科学の国の在り方が大きく影響していると思います。科学の国は目に見えるものを対象とする学問(はっきりと研究成果が挙げられるであろう学問)に対しては寛容ですが、目に見えないもの(非物質的存在)に対しては非常に厳しいです。科学の国全域に対して学校に通えるように政府による援助が為されており、優秀な生徒に対しては学生であっても個人の研究室を与えたり、飛び級も当たり前であるといったように完全に実力主義の国になっています。国家として科学を推進していく中で、自然と、そうでない生徒達、国民達に否定的な国風ができてしまったのかもしれません。

今回は、アニマがシャーレリを救うきっかけを、その糸口を頼りに実際にシャーレリの心を救ったのはロイセン植物研究所の面々です。何故今回の舞台がロイセン植物研究所だったのかというと、ロイセン植物研究所は科学の国の中でも異端な頭のおかしい奴らが隔離されている空間だったからです。恐ろしいほどに我が道を行き国も他人も気にしない人間ばかりなので、科学の国の常識に囚われないこの異質な空間が二人の心を救うために必要だったのではないかと思います。

以上!ここまで読んでくださりありがとうございました!

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