時間等曲率漏斗

同じものを見ていても視点が違えば形も違うように見えて、それを語る言葉も変わる。
どちらも本当の事を言っているのに、違う内容になったりする。

クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム
もし、きみのパパが、地球のいままでのだれよりもりこうで、どんなことでも知っていて、なんにでも正しいことがいえて、そのうえ自分が正しいことをちゃんとしょう明できる人だったとしよう。つぎに、ここから百万光年むこうの、あるすてきな世界にもひとりの子どもがいて、その子のパパは、そのとおいすてきな世界のいままでのだれよりもりこうな人だったとしよう。その人はきみのパパとおなじぐらいりこうで、おなじぐらい正しいんだ。どっちのパパもりこうでどっちのパパも正しいのさ。
だが、もしかしてこのふたりがでくわしたら、きっとたいへんなぎろんになるだろう。なぜって、ふたりははどんなことにも考えがわかれるからだ。うん、きみならきみのパパが正しくて、よその子のパパがまちがってる、というかもしれないね。しかし、宇宙はすごく大きいところなんだよ。だから、すごく大ぜいの人間がみんな正しいことをいって、それでも考えがわかれるってこともあるわけだ。
どっちのパパも正しいくせに、それでもたいへんなぎろんになるのは、 いく通りもの正しさがあるからだ。しかし、この宇宙には、そこへいけばどっちのパパもむこうのパパがなにを話しているのかわかるような、そんな場所がいくつかある。そんな場所では、いろいろなしゅるいの真理が、きみのパパの太陽時計の部品みたいに、ぴったり一つになっている。そんな場所のことを、クロノ・シンクラスティック・インファンディブラムという。
クロノは時間といういみだ。シンクラスティックというのは、オレンジの皮みたいに、どっちの方向へもおんなじように曲がっていることだ。インファンディブラムというのは、ジュリアス・シーザーやネロのような大むかしのローマ人が、じょうごのことをそうよんでいたんだ。もしきみがじょうごってどんなものか知らないなら、ママにそういって見せてもらうといい。
( カート・ヴォネガット 「タイタンの妖女」)

健康に生きてきた人だと、身体の悪い人の気持ちは経験がないので想像しにくい。
みんな自分の経験や知識からしか想像できない。
それはどうしようもない事。

「不良品」発言が呼んだ物議…松本人志と太田光の“同時間帯発言”の余波 (2019年6月8日)
https://www.excite.co.jp/news/article/Asajo_73564/

通り魔のような事件があれば、
普通の人は、何も悪くないのにやられる被害者側のことをまっすぐ考える。
でも弱い人のどうしようもなさをわかる人は、いつ誰でも加害者になってしまう可能性を知ってる。

松本さんは健康な普通の人の視点で、何も悪くないのに殺された被害者のことをまっすぐ考えた。そんな事をする人は良くない人だと。
そして事件現場に花をたむける人が増えているのは救いだと。

太田さんは弱い人のどうしようもできない状態を経験から理解していて、いつ誰でも加害者になってしまう可能性を知っているからこそ、加害者のことも人ごとじゃなく考えていた。
そんな事をする人は単純な悪でなく弱者であり不幸な結果なのだと。

2人とも優しく人を思いやってる。

自己責任というけど、自分で何か変えられる事って結構少ないような気がする。
持って生まれた性質や体質、環境や運など…大体のことはどうしようもなくて、みんな出来れば自分の事をより良くしたいものだし、良くしたいと思えなければそれもまた性質だと思う。

松本さんは犯人が持って生まれた性質が社会的に良いものでなかったという意味で不良品と言っているのだろう。
でも、理不尽な被害を受けてしまう善良に生きる人達の方に目が向いているため、不良品としてしか生きられなかった不幸と悲しさを哀悼する言葉は無かった。

私は、事件現場に花をたむける事が何の救いになるのか考えてみた。
被害者の家族や関係者は事件現場の道端に花や食べ物が山のように置かれて嬉しいのだろうか?それを見て救われる気持ちがするのだろうか?私にはわからない。
でも、献花をしたい人の気持ちは間違いなく救われる事はわかる。やりきれない事件への自分の気持ちが慰められるだろう。
でも、そのやりきれない気持ちの対処こそ自己責任でなんとかできないだろうか?と思う。
片付ける人が必要になるのだし、被害者側の気持ちはわからないのだから…。
もちろん被害者側がそれで救われますと言って、献花する人達が責任を持って献花台を設置するならいいけど。

松本さんはビジュアルバムの荒城の月で圧倒的に弱者側の視点を書いていたと思う。
あの下から上をぐっと見上げていた気概と、今のまっすぐな視線とのギャップがすごい。
両方の視線を持ったのならすごいけど、
私がお笑いに求めている救いは、荒城の月や太田さん側の視点だ。

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