「孤独なボウリング」備忘

2006年に出版された「孤独なボウリング」(ロバート・D・パットナム。芝内康文訳)という本があります。これは社会関係資本に関する本なのですが、その中で職場に関するものとして次のような記述があります。

第二次世界大戦の退役軍人がIBMに入社するとき、妻とよく相談するように指示されていたが、それは「いったん入社したら、一生の間企業ファミリーのメンバーになる」からであった。(100頁)

半世紀後、世界市場における競争が激化、情報技術が発展し、短期的な経済的リターンへの関心が増大し、それらと新しいマネジメント技術が合体することにより、ほぼすべての仕事で「不確実性」が増大した。(中略)経営学者のピーター・キャペリは、雇用慣行、特にホワイトカラー層における変化に関する一〇年間の研究をまとめ、「確実、終身雇用で予測可能な昇進と安定した賃金をもたらす古い雇用システムは死に絶えた」とした。(100頁)

これらの変化がもたらしたことの一つは被雇用者の不安増加であるが、そこには失ったもの同様に勝ち得たものもある。会社からの独立性の向上、階層のフラット化、家族主義的干渉の低下、年功や忠誠よりも、功績や創造性に対する報酬の増加といったことは、多くの会社やその従業員にとってよいことであった。企業内でも勤労意欲や従業員のコミットメントがひどくダメージを受けたとしても、そしてそうなるのが典型ではあるのだが、しかし、企業の生産性が向上したことは多くの研究が見出していることではある。(100頁)

この本は、社会関係資本の本であって、労働社会学や産業社会学の本ではないのですが(ましてや労働法の本ではないのですが)、社会関係資本の文脈から職場の社会関係を一つのジャンルとして取り上げていて、そこに上記の記述があります。

日本的雇用というと終身雇用とか年功賃金、新卒一括採用などの制度(雇用慣行)によって特徴づけられるといってよいかと思いますが、上記の引用部分のとおり、アメリカ合衆国でも、第二次大戦後以降1980年代ころまでは、(日本的雇用と呼ばれるものと完全に等質的なものであったかどうかはともかくとして)終身雇用的な雇用実務があったことが伺われます。そしてアメリカ合衆国では、終身雇用的な雇用実務からそうでないものへの変化について、功罪あれど一方的にネガティブなものとして受け止められているということではなさそうです。

これらの記述からすると、正規雇用/日本的雇用といわれるものから、そうでないものへの転換(の是非)という課題は、日本に特有の課題ではないように思われます。

日本では、メンバーシップ型、ジョブ型という用語が使用されることがあります。その用語の意義についてはちょっと検討を要する(定義をはっきりさせないまま用語自体に由来するイメージが先行している。私が不勉強な部分もあります。)と思っていますが、現在の労働関係法令は、有期雇用について一定の条件の下に無期雇用への転換権を生じさせていたり(労働契約法18条。無期転換権)、有期雇用の更新拒絶について規制を設けたりしていますから(労働契約法19条。雇止め法理)、少なくともジョブ型雇用を積極的に容認・推奨しているようには見えません。

日本の労働関係法令の課題の一つは、雇用契約の終了をどう擬律するかという点にあります(終了させられない継続的雇用は、そもそも雇用契約締結のインセンティブを損ないますので、ここの制度設計は社会に大きな影響を与えます。)。無期雇用及び有期雇用の解雇については、今の法律では、客観的に合理的な理由があって社会通念上相当でなければ無効になります(労働契約法16条)。ですが、解雇は、本来次のような類型を含むはずです。
1.無期雇用:①解約告知、②債務不履行解除
2.有期雇用:③中途解約、④債務不履行解除、⑤更新拒絶(雇止めを解雇に類するものとして整理する場合)

正社員だとか非正規だとか、メンバーシップ型とかジョブ型とか、定義がはっきりしない用語をもてあそんでいても、人の行動は変わりません。法律を変えると人の行動は変えることができます(これは人が法を守るから、という意味ではなくて、人は、規制があることを前提としてどのように行動するのが合理的かを判断して行動を変える場合があるというニュアンスです。)。このため、このような用語を使用する場合には、だから現在の労働関係法令はどうあるべきかという立法論が伴ってしかるべきです。

気分的には、労働者を弱者として、資本家を強者として、労働者保護を叫べば良いことをしているような感じになって気持ちよいし楽なのですが、現実の社会はそのように単純なものではないことは、上記の引用からも理解されます。個々の雇用契約上の紛争処理としての着地点と、制度設計としてどのような体裁が望まれるかは関連性はありますが別の話です。

厚生労働省は判例をそのまま法律にする程度に無能です。日本の裁判所に社会の変化をリードするような判断を示すことを期待することは通常できません。労働者側、使用者側という立場を離れて、社会学、経済学、法学など学際的な議論の場所が自生的にできればよいなと思います。

法律的な整理が雇用であれ業務委託であれ請負であれ、個人事業主(フリーランス、一人親方)であれ、働いて生活の糧を得ているという意味では同じなので、安全衛生の水準や労働者福祉的なサービス(社会保障制度)へのアクセスは同等にできるのがよいのではないかと考えています。雇用とそれ以外の働き方との間の落差が激しく、正社員と非正規の落差もあって(二段階の落差)、法律構成を前提にして制度設計する限りここから抜け出せないので、法律構成に捉われないで人の現実の働き方を含む社会の実態から考える視点が必要なのではないかと思います。そうでなければ、正社員を非正規に、雇用を非雇用にという圧力と、階層間の格差に私達は永遠にさらされ続けなければなりません。どのような働き方もネガティブなイメージがなく選択肢として等しい評価が得られ、人が積極的にどのように働くかを選択できるようになるとよいなと思います。

「孤独なボウリング」は、雇用は一つのジャンルとして紹介されているだけで、雇用関連に限らず社会関係資本に関する広い知見が示されていて面白い(たぶん重要な)本です。

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