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労働は恐ろしいけど

明日、9日ぶりに仕事へ行く。

5月の大型連休は3日しか休めなかったけど、なんとここで完璧な9連休をつくることができた。全然よろこばしいことではないけれど。

日曜日の夜に感染症にかかってしまい、そこから平日まるごと5日間の休みをもらった。大きな仕事を前にした大事な時期を、見事にだめにした。昨年末、卒論の締切前には、同じような感じでインフルエンザに罹っている。わたしという人間の残念さはこういうところにあるんだよなあ、

療養あけて迎えた土日、今日は完全復活で迎えた日曜日である。あいにくのお天気ではあるけれど、寝て過ごすおなじ1日でも、体調のよしあしでその価値はまったく変わってくる。料理をするにも、掃除をするにも、動くべきではない体に無理をいわせるようでは、何をするにも楽しくない。

ひとり看病も板についてきたかと思ったのは初日だけだった。いや、最初の数時間だけだったかも。熱っぽさを感じてスポーツ飲料や冷えピタを買いにいくまでは良かったけれど、1時間かそこらで38度を超えてからは、あっというまに身動きが取れなくなった。おそろしかった。

夜中、39度を超えていよいよ理性が破壊されていく頃、病院への行き方がわからなくて絶望した。いろいろもがいてみたけれど、結局この家をでて病院にたどり着く手段がまったく見えず、無意識に「もう無理。」ってぼやいてしまった。あの瞬間ではこの世で1番孤独な独り言だった自信がある。感染症はこわい。

そんなこんなで5日間は寝たきりの生活だったわけだけれど、その前までは1日最低12時間は拘束されるような爆裂労働をこなしていた。休憩時間なんてものはないし、“定時”とか“残業”という概念もほとんど透明で、職場にいるかいないかの区別しかなかった。わたしは明日、その強烈な世界にまた身を戻すことになる。生きて帰れる自信がない。復帰後すぐに大仕事も待っているし、なんだか始まる前から気疲れしている。気持ちがぺしゃんこになりそう。

荒波のような時間に追われるばかりだし、細々とした仕事の山は永遠に片付かないし、この職は向いてないのかもしれないと悟った瞬間もあったけれど、仕事って、大概どれも同じようなものなのかもしれないなとも思う。そりゃあ、働くって大変だよね。職場での働きぶりがわたしという人間の価値を揺さぶろうとする感じは居心地がわるいし、それに抗うことはもちろん、受け入れてバランスを取るということもまだむずかしい。自分の生活を、自分という人間を、自分の望む状態に築き守ることは、とても高度なことだ。

いまのわたしにできるのは、「いつもとちょっと違うことをやってみる」ということ。一品だけでもいつもと違うおかずを用意してみたり、変わり種のふりかけを買ってみたり、5分だけでも公園のベンチに座ってみたり、職場におやつを常備したり、そういうことをやってみている。その小さな変化の延長に、特別感がやってきたり、“挑戦”へのハードルを低くしてくれるのだと思う。

くれぐれも、見栄えを気にしたり、頑張ろうとしないこと。自分が怠惰な人間であることはよく分かっているけれど、この凄まじい労働を強いられるだけでなく、できるだけたのしく過ごせるようになって欲しいという親のような気持ちがある。これが、いまのわたしにできる精一杯の“自分を大切にする方法”なのだと思う。

人生は長い。ひとまず一年を目標にしているけれど、それでも長い。日々にただよう“永遠”の雰囲気にも、できるだけ趣を感じていたい。そのために、わたしは労働も、生活も、諦めないって決めたんだ

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