たしかめたい

最近、母がむかしのアルバムから写真を送ってくれることが増えた。わたしたち姉弟が幼かった頃の写真。

ことしは弟が20歳になる年で、年始に成人式を控えていることもあり感傷的になっているのだと思う。わたしの時も、そうだったから。

わたしは小さい頃からアルバムを見るのが好きだったので、その写真が撮られた時のことは覚えていなくても、こういうことがあったんだなあってアルバムを見て納得したことが思い出になっているところがある。

どうしてアルバムを見るのが好きだったかというと、写っている人たちがみんな幸せそうな顔をしているから。

小さい頃の写真はとくに、まん中にわたしや弟たちがいて、そのまわりの両親や祖父母はみんなとろけるような笑顔をしていた。それを見ると、じぶんはみんなに喜ばれて生まれ、育ったのだと確かめることができたし、そういう安心が欲しかったのかなあ。

今では、いろんな人の腕に収まるじぶんを見ると「よかったねえ」と思うし、その周りの人が幸せそうな顔を見ても「よかったなあ」と思う。

そこに写っている子が自分だとは、もうとうてい思えなくて、まるで他人事のようだけれど、あのとき愛情を注いでくれていた大人たちは、ここまで大人になったわたしを、どう思っているのだろうか。ここ数年、いつか聞かせて欲しいと思いながら、ずっと切り出せずにいる。大人になったわたしは、まだ何かを確かめたいみたいだ

不安はなかったけれど、安心があったわけでもなく。(両親は安心していたのだろうけど。)思い返してみても、幼稚園児の頃から時折おそわれていた猛烈な帰りたさって、心細さだったのかもしれないなと、最近ようやくわかり始めたような気もしている。

その心もとなさが、わたしが手放せずにいる幼さなんだと思う。

年末に帰る時には、子育ての思い出話をたくさん聞かせてもらおうかなあ。

なんだかんだで、今年もひとりギリギリのところを歩く足もとは変わっていなくて、たぶんこれから先も、とうぶんは変わらないこと、もうほとんど諦めてるけど

それだったら少しでも、自分はひとりじゃないと思える何かを、できるだけ温かな形で集めるように、生きていけたらいいなあ

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