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善悪の斧

京浜東北線某駅、電車に乗る。優先席は埋まっており仕方なくドア付近に立ち止まる。
そんなわたしを見かねて素敵なマダムが『立ったままで大丈夫?』と声をかけてくれるが、彼女もまたドア付近に立っているのである。
そんな声にハッとした青年が申し訳なさそうに私の立っていたすぐ後ろの席を譲ってくれる。
お礼を言い座っていると、例のマダムが『あなた偉いわね〜』と青年に声をかけていた。

この世界は、人の善意に溢れている。



東京に帰る名古屋駅新幹線口改札、電車に乗る時は普通の改札だと他の利用者に迷惑がかかるので、1番端の駅員さんがいる場所を利用するようにしている。日曜日の午後ともあって、だいぶ混み合っており、少し並んでいた。
前の二人組がしばらく駅員さんと話していたので待っていると、サングラスをかけた若い男性が肩で風を切って改札を通って行き、避けるために思わずよろけてしまった。男性は振り返りもせず、後から連れの女性がちょっとバツの悪そうな顔で通っていった。女性の前で威厳を見せたかったのであろうか。

この世界は、善だけではできていない。



松葉杖生活は正直めちゃくちゃ不便だ。両手が使えない、エレベーターがないと死ぬ、たくさん移動すると全身筋肉痛になる、なんか両手親指痛めてる気すらする、雨の日外に出られない...
数え切れないくらいデメリットがあるが、たったひとつメリットをあげるとしたら
『世の中をいつもとは違った目線から見ることができる』ことだろう。
私は普段五体満足で日常生活を問題なく送っている。時間が無ければ走るし、満員電車にも乗る。それが思うようにできなくなった今、人の善意にも悪意にもより敏感になっていると感じる。
(普段から割と敏感寄りじゃない?という意見に関してはまた別のnoteを書きますね)


ここで間違ってはいけないことは、『故意に悪意をむき出しにしてくる人は(ほとんど)いない』ということである。
悪意は故意ではないことの方が多い。善意は意識しないと伝えることができない。
自分は普段の生活で、どれだけの善意を周りの人に伝えられているだろう?
見えない悪意で、人を傷つけてはいないだろうか。




私たちは日々生活しながら、見えないところで無意識に悪意の斧を振り下ろしていることだろう。
しかし私の周りの友人たちは、移動、スケジュールの調整、移動先での介助など、もう有り余るくらいの善意を私にくれている。
これから先の人生は、そんな友人たちのように、斧を一生懸命しまって、助けを求める人に意識的に善意を伝えられるような人間になりたい。

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