「死ね」という言葉の重み
私は死ねと言われても傷つかない。寧ろ、死ねという言葉は重すぎるが故に禁忌とされ、逆説的な意味と捉えられると思っている。
出会ってすぐの人に死ねなんて言わないし言われない。長い時間の中で形成された関係性でのみ使用されるからこそ、冗談というニュアンスを含む。
ただ、そう捉えているのは全員ではない。中学生の頃1度仲のいいと思っていた女の子の友達に「死ねよ笑」とメッセージを送った。私からすれば笑という記号も付けて2重に冗談という意味付けをしたつもりだったのだが、彼女にとっては受け入れ難い言葉だったらしい。冗談でも言ってはいけないと。
このことは久しぶりに思い出したのだが、そのきっかけはM-1でからし蓮根がこの言葉を発したことに対して批判をしたツイートが回りまわってきたからだ。
M-1という最高の舞台、ゴールデン、コンプライアンス、様々な環境要因が織り交ざる中で「死ね」という言葉に重みなどはなかったはず。だが少なからず、嫌悪感を抱く人がいるということ。
お笑いは常に正義の剣を振り回す方々から制裁を受けてきた。いじめといじりの区別などだ。プロが行うことのみ許されるからこそお笑いは面白い。私はそう思う。
話は逸れるがニューヨークの最終決戦用のネタもかなり毒があった。現代のコンプライアンスを考えると生で放送が許されるのか?というくらいだ。だがそれが痛快で爆笑してしまった。女性を完膚なきまでに叩きのめしている。フェミニストが見ようものなら炎上案件だ。
このネタに涙を流しながら笑う私は男尊女卑の賛同者なのだろうか?意思疎通を図るために言葉を発明したのに、すれ違いが起こる。
そのすれ違いすらくだらないと思いながらも面白いと感じる私はクズと呼ばれる人種なのだろうか?
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