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隠れビッチ

タイトルには性的な快楽と書こうとしたけど周りからの目を気にしてやめた。周りの目を気にしないことがこのnoteを書くことのメリットの1つだったんだけどな。まぁ、そんな時もあるか。

てか、こんなこと書く私に教師になる資格があるのか疑問に思う。周りの人は素質があるよとか言ってくれるけどさ、そりゃ表面上は先生に向いている人格にするさ。だって周りの目を気にしているんだもの。逆に裏表ないことの方がなんか浅そう。どーでもいいか。

タイトルがコロコロ変わる。この行にきて3回目だ。性的な快楽→快楽→隠れビッチと言う順番。読者から見たらなんのこっちゃわからんだろうけど。

隠れビッチにした理由は簡単。隠れビッチという本を読んだからだ。僕は周りからどう見られているんだろうか?生徒からはチャラいって言われてる。たぶん同級生のチャラい人から見たら童貞ぽいかな?もちろん相手によってキャラを変えている。

多分、本性はこのnoteを書いているときがそうだろう。自分の内面を見て、溜まったものを吐き出しているからだ。この表現だとほぼ汚物。

本題に入るが、性行為は経験済み。パートナーだった人たち以外とも。振り返ると交際した人たちの中で何人が本気だったのだろうか。別れて本当に悲しかったのは一人だけだった気がする。悲しいことにその人には二ヶ月で振られ、その彼女の印象は外見がずば抜けていたってことだけ。 浅いな笑

こうなると結婚なんてしてそこから一生連れ添うなんて考えられない。憧れるけど非現実的。

ただ、性欲は搭載されている。だからパートナーじゃない人とやった経験がある。もちろん終わりと同時に訪れる虚無感に襲われ、もう二度とやらないとその度に心に誓う。宗教に入っていたら神にでも誓ってたのだろうか。

ふと考えるのはこの虚無感。なぜ体だけの関係はいけないことなのか。倫理的なこと?麻薬の類だろうか。一人を愛せていないということは良くないことだと思われる。このことを大っぴらに話して得はない。けど誰かの考えを知りたいからここに書く。

レイプはいけないこと。そんなことはわかる。でもお互いがなんらかのメリットのためにすることは犯罪ではないし、合意の上。でも軽蔑の対象である。

かく言う私も、何人とやったことあると恥ずかしげもなく公開する人に良い印象は持たない。でも批判することもない。

いつも通り話が右往左往したが、「隠れビッチやってました。」という本を読んで、DVや愛されなかった幼少期などの壮絶な人生を歩み、歪んだ考えを持つようになった主人公の人となり、クズさが逆に美しいと感じた。世間一般という普通さとは、かけ離れており、どこか人間味があるからだろうか。

自分の中で毎度お馴染みの一言で締めくくるところまでやってきた。

愛すること、愛されること。今の自分には感じられない二つのことが今後経験できる日は来るのか常に不安だということ。また、22歳の私には愛というものの隣にはいつも性的な快楽が伴うように思えてしまっている穢らわしさをどう捉えるのか迷いどころだということ。

人間という種の繁栄のために備えられた性欲と愛との関係。神秘的なことであるが人間としての汚らしさをも感じられる。


一言では終わりませんでした。

追記
あなたの考えが知りたいです。

ここだけの繋がり。赤の他人。匿名の友人。ネットだからこそ話せることがあると思っています。面と面向かって話せないことの弊害が指摘される時代ですが、その利点もあるはず。もしよろしければあなたのことを教えてください。

追記2
これを見ている現実の友達へ
信用出来るあなただからこのnoteの存在を伝えています。だから、このことについて、noteに綴ったことについて話しかけてくれて大丈夫です。たのしみにしています。

おわり。

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