通天閣の下の赤ちゃん第十八話
そこへ、交番所の巡査がやっと来た。続いて憲兵も来た。新ちゃんと丁稚、負傷の酔っ払い兵卒、巡査も同乗して憲兵の車輌は発進した。
一部始終をホマレの入り口から見届けたナポレオンは直ぐさま商店会長、町内会長に告げてから浪速警察署に電話連絡して新ちゃんの居所と処置について知らしてくれと依頼した。
数日して、新ちゃんは憲兵隊から浪速署に移送されて来て、署内留置所に拘留された。憲兵隊はこの事件が公表されると、酒に酔い市民に銃剣を抜いた兵卒は不味い。軍規が弛んでいると軍律を問われたらどうするのか、ここはひとまず極秘処理に限ると判断したのだろう。新ちゃんの処分は警察一任ということであった。
ナポレオンは軍の機密主義は二〇三高地で経験済みだった。なにしろ部隊は全滅したのに発表はなかった。死んだ兵士たちが気の毒だった。なんという嘘っぱちなんだろう。全部、軍の御都合、御勝手だけじゃないか。
「そうですね。今回の軍の御処置はゴー・ストップ事件が尾を引いてますねえ」と商店会長、町内会長がナポレオンに頷いた。
ゴー・ストップは昭和八年初夏の出来事で商店街の話題になった事件である。
やはり新世界歓楽街へ遊びに来た八連隊の兵士中村一等兵が、天六交差点で信号無視をした。曽根崎署交通係戸田巡査がそれを咎め、派出所に連行した。所内で双方が揉み合う程度のトラブルがあり、両者が相手によって負傷したと主張した。ストップでゴーした兵士の横暴さは、多少新ちゃんの事件と似ていないこともない。
それだけのチッポケな事だが、第四師団井関参謀長が「皇軍の威信に関する重大問題」と発言し、大阪府粟屋警察部長も「兵士であろうと赤信号無視は許されない」と抗議して、相互がエスカレートし、寺内師団長と県大阪府知事、つまり陸軍省と内務省の対立にまで進んだ。新聞報道もあって、結局、福井県の秋の陸軍大演習に統監として臨席した昭和天皇が荒木陸相に「大阪の事件はどうなった」の御下問があり、上御一人の御耳にも達していると恐縮した両者で和解した。ただそれだけのことである。だが内実は警察側の譲歩で、軍統帥権への屈服だったそうだ。
それらのことは別として、新ちゃんが憲兵隊ではなくて警察に引き渡されたのは幸運であった。市井人にとり、軍は国民皆兵制度で命を兵として召される所、警察は生活のすみずみまで干渉される所、どちらも権力機構そのものである。だからどっちでもよいようなものだが、まだ警察の方がましだったということである。ナポレオンはすぐさま嘆願書をつくり署名簿を廻してみた。商店街も町内も全員が署名してくれた。日頃、新ちゃんの人によって差をつけない、頼まれれば嫌と言えない竹を割った気風と世話好きな親切心をどれだけの人々が愛していたことか。それにもまして新ちゃんの男前に惚れこんでいたオカミさん連中の応援はすさまじかった。町の外の親戚、知人にまで署名集めをしたものだから、たちまち三十冊以上の署名簿が山積みになった。
ナポレオンと町会長と商店会長が署名簿・嘆願書を浪速署長室に持参して、意外な事実を知らされた。新ちゃんは町の善行者として、何回も署から表彰されていたと署長が言明した。なんでも身よりのない人のために寄附金を重ねて供出していたそうである。あの露店の僅かな手間賃仕事の収入なのに身を削って、よくそこまでやったと三人は感嘆した。もちろん署長も以前から感心していたから解決は早い。新ちゃんは数日で釈放された。傷害罪の起訴送検もなしの正当防衛の無罪放免だった。署長の気分のなかには町会長と商店会長が言ったように、矢張りゴー・ストップ事件で受けた警察の屈辱感が、軍に対する意趣返しがあったのかもしれない。
第十八話終わり 続く
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