私はチバユウスケの声を知らない

私はチバユウスケの声を知らない。



THEE MICHELLE GUN ELEPHANT も ROSSO も The Birthday も、私が認識する限りでは聴いたことがない。この言葉はあまり好きではないが、ぶっちゃけ「世代じゃない」とも思う。

とはいえ、高 3 でストレイテナーと出会い、彼らの歴史や同世代のバンドをそこそこ追ってきた身である。チバユウスケの情報を耳に入れない方が難しい。そんなわけでミッシェルも The Birthday も、心の中の「いつか聴きたいリスト」に存在し続けていた。聴きたい音楽は常に飽和していて、浮気癖と焦らし癖も手伝ってそのまま 5 年間順番待ちをさせていたわけだが、武道館でストレイテナーと会えたのもあり、いよいよ聴くときが来たかと感じていた。


思いもしなかった。そんなことを考えているときにはすでにチバユウスケがこの世にいなかったなんて。



2023 年は、私でも名前を存じ上げているミュージシャンの訃報が多い。

それらを耳にするたび、私は不可思議な感情を抱いていた。
便宜上「かなしみ」と呼んでみるものの、明らかに少し違う何か。美しい言葉でかなしみを表す人に対して不謹慎にも羨ましさを感じてしまう、決して美しくはない感情。


今日、やっとその感情の正体がわかった気がする。


こういうニュースが出ると、その人の思い出について語られた投稿が SNS に大量投下されるのを知っている。YouTube の MV のコメント欄が追悼コメントであふれかえるのを知っている。

それらを見るたびに私は、「ああ見てしまった」と思う。そして、そういう言葉をそれ以上目に触れないようにしている。「これを機に曲を聴いてみよう」など微塵も思わない。

断っておくが、追悼コメントを否定する意図は決してない。かなしみを素直に言葉にすることは自然なことだと思うし、それを共有する場があるのは良いことだと思う。あくまで私個人にとっての物事の順序の話だ。

評価を耳にする機会の多いミュージシャンだからこそ、まずは自分の耳で聴きたかった。美しいエピソードによってイメージが再形成されてしまう前に、自分が何を思うのかを確かめたかった。思ったよりも暗かった/明るかったとか、この曲は好きだけどこの曲はあまり好きじゃないとか、好き勝手な評価を下したかった。

それが叶わなくなった(叶うとしても困難になった)ことが「悔しい」のだろうと思う。言語化する前からわかってはいたけれど、なんとも美しさとはほど遠い、自分勝手な感情である。



チバユウスケの声を知らなかった私は、今も依然としてチバユウスケの声を知らない。ミッシェルや The Birthday にはまた列に並び直してもらって、いつか聴きたくなったときに聴こうと思う。何を思うのかはそのときのお楽しみなわけだが、混じりっ気なしの「いいじゃん」や「なんじゃこれ」だったら良いなとうっすら期待しておく。

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