ノーマスクについて思うこと

 マスクをつけるかつけないか、これまでもそうした議論は幾度となく繰り広げられてきたが、政府方針が変わったことでここにきて一層難しい問題となっている。

個人の判断は自由なはず

 第一、ほとんどの人にとっては赤の他人が流行り病に感染したからといって、どうでもいいというのが事実である。しかし、自身が罹ってしまった場合には無関心というわけにはいかない。高熱や咳が止まらないといった症状が出て苦しむかもしれないし、仕事や学校を休む必要も出てくるだろう。これが定説であった。ただ結局は自身の判断、自己責任という結論に行き着くのだからこの話に特段の複雑さは無い。だからこそ、街中でマスクをするかしないか、個人の判断に委ねられる以上は自由にすればいいのである。
 一方でこんな話もある。道路上ではマスクを外していても、すぐに建物や電車などの人が多く居る空間に行くからマスクをしたくなり、その結果付け外しの手間を考えれば常に付けておく方が良いと言うものである。これは中々仕方がない所もある。マスクをいつどこでつけるのかを個人の判断に委ねる以上、このような判断になっても仕方がない。

個人と組織の違い

 ここまでは個人がマスクの着脱をどう判断するかというものである。これは議論の余地なく勝手にやってほしい。しかし公的機関や多くの人が利用する施設では話が違ってくるのである。
 個人の意思決定で判断できない組織や施設ではその判断が責任問題に発展する可能性がある。もしマスクをしなくてもいいと発言しておいて、その施設で集団感染が起きたら、もしくはそこから死亡するようなことがあれば、それは訴訟につながるかもしれないのである。そのため、その指示を出したのが誰か、責任の所在を明確にしておく必要がある。あるいは後の対応をマニュアル化しておく必要もあるだろう。
 ここで施設は2択を迫られる。
①利用者にマスクをさせておいて万が一感染者が発生しても自分たちに落ち度は無かったとする
②利用者にマスク着用は強要せず感染者が発生しても自己責任とする

 当然施設側の責任問題を回避するには①を選ぶほかない。これまでは政府の方針がその後ろ盾になっていたし、マスク着用への抵抗感(不快感)もそこまで多くの人が感じなかったからそれでよかった。しかし、この3月以降もその方針でいいのかが難しい問題である。

大切な何かを失わないために

  結局のところ、多くの人にとってはこのコロナウイルスへの感染自体に危機感があると言うよりは、3年が経った中で罹ったらその後が面倒臭いモノという認識が広がっているように思う。多くの現代人にとって、会社や学校を休むことは収入・ビジネス機会、受験勉強などの取り返しのつかないモノへの負の影響となるだろうし、遊びに行く予定1つ取ってもその機会がコロナによって無くなることを避けたいのである。だからこそ、個人ができる予防策の最たる例であるマスク着用は皆が一斉に止めるべきものでもないし、個人の自由な判断に任せれば判断に違いが生じてくるのである。
 ノーマスクを叫ぶ人たちの中でも他人に外させようとする勢力は果たしてマスク着用の強制から解き放たれたいのか、マスク非着用を強制させたいのかどっちなんだろうか……私は少なくともスギ花粉の飛ぶ間はこの問題から離れようと思う。

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