24)隣の席のおじさん
平成になるかならないかのころ。帰省のため少々混んだ特急に乗り、何とか席を見つけて座った。隣は知らないおじさん。
何のはずみでか、会話が始まった。二十歳そこそこの私に、おじさんは「やっぱり母親は家にいて子どものめんどうをみるものだ。そうでないと子どもはさびしがってまともに育たない。」とやりだした。
私は卒業したらずっと続けられる仕事に就こうとするのが当然だと思っていたし、両親の共働きはこれまた当然のことだった。母親が転職のため半年ばかり在宅だったときには、早く今までどおり仕事に行ってそれまでどおりの生活をしてほしかった。おじさんの言説によると、そういう家庭では子どもはまともに育たないらしい。つまり、見ず知らずの私に「あなたはまともに育っていないはずだ」と言っているのと同じなのだが、どうやらそれには気がついていない。
そのころの私は、そういうおじさんは明治とか戦前にはたくさんいたけれどもう絶滅したと思っていた。実はぜんぜんめずらしくもなく生き残っていて、以後、年齢を重ねるほどにたくさんそういう人に出会うことになるとは知らなかった。
おじさんはどうして私に話しかけたのだろうか。私はどんな言葉を返せばよかったんだろうか。もやもやしながら家に帰った。
あのおじさんは出張帰りだったんだろうか、それとも単身赴任先からの帰りかもしれない。とにかく機嫌よく言いたいことを言って、よもや相手が30年ももやもやを抱え続けるなんて、想像もしなかったことだろう。
見ず知らずの他人であっても言葉を交わすなら、その会話の中で相手がどういう人なのか知りたいと思う。そのとき限りのつながりであっても何か響きあうものがあればうれしいと思う。無用に不愉快な思いをさせることなく、できることならお互いに快適な時間を過ごしたいと思う。貪欲すぎるのかもしれないけれど。
2019/08/01
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