間違いだらけの自立支援(破)

「自立」が叫ばれるようになって、ケアはどうなったのか。
人間の心身の機能は、使わねば衰える。そのことは自明の理であり、使い続けることが命題である。少しでも、力が残っているのであれば。頭を使い、手足を使い、内臓を使う。心も揺れるようにする。それが最期まで人間らしく生き抜くという営みである。

そのことを介護現場はどう捉えたのであろうか。
寝たきりになった要介護高齢者。生きる意欲を無くして日々を過ごしている。彼ら彼女らに「活力」を与え、最後の最後まで生き切るよう支えるのが僕らの役割とされる。
だから「自分の口で食べられるのだから、なるべく食べられるように」食事の形態を工夫し、口腔ケアを欠かさないよう力を注ぐ。「歩けるのに歩こうとしないから、なるべく歩ける機会をつくる」たとえそれが数メートルだけでも、数歩でもいいから毎日できるように励まし促し共に歩く。ちょっとでも感情を揺らせたくて、レクリエーションをする。話しかける。笑わせようとする。
そうやって毎日関わろうとしているのが、介護現場である。

高齢者介護は、お年寄りの子ども返りという言葉もあるように、子育てと並んで称されることが有る。排泄の介助や食事の世話、日常の暮らしを支えるという意味では共通点が在るともいえる。が、保育や幼児教育、あるいは自宅での子育てと根本的に異なるのは、未来の有無である。子どもたちは、今まで出来なかったことをどんどん習得して進んでいく。変化は顕著な成長である。しかし高齢者はどうであろうか。「死」を間近に感じながら、自分の身体の衰えを痛感しつつ、気の置けない家族や友人たちを失う淋しさに包まれた中で、何を目標に生きていくのであろうか。天から与えられた寿命を全うするがためだけに日々を暮らしていくのか。

僕は中年という年代になったけれど、まだ死期を如実に感ずる意識は持ち合わせていない。ただ、死が怖いばかりである。新型コロナの濃厚接触者と認定されて自宅待機をしていたときには、もし死んでしまって親しい人たちに会えなくなったらどうしようかとそればかり怖がって過ごしていた。
想像の域にはなってしまうが、おそらく高齢者と言われる人たちは、もっと死というものを身近に捉えている。得も言われぬ恐怖に囲まれているかもしれないし、達観している人もいるだろう。そう考えると、僕は安易に「頑張って」とは言えなくなってしまうのである。

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