頭痛が痛い、みたいなお話

「何のために介護をしているのだろう」と思うことはないだろうか。一所懸命に食べてもらおうと思って食事介助に汗している。食事介助では全量摂取が良いこととされ、食べずに残すことはある意味「悪」である。週に2回のお風呂を入ってもらうがために、嫌がられてもひっかかられてもなだめすかしてあの手この手で浴室まで誘導し、服を脱がせる。

介護とは暮らしのサポートである。人間が人間としての暮らし(生活)を営んでいけるために、病気や障害などでそれが自分だけでは担えなくなったときに支える活動であることは言うまでもないであろう。介護を仕事としている僕らにとって至極当たり前のことなんだけど、振り返ってみる必要があるのではなかろうか。つまり、「介護のための介護」をしていませんか?と自省してみましょう、ということ。

“業務として”食事を提供し、“業務として”お風呂に入れ、“業務として”トイレに誘導する。仕事としてやっているんだから当然である。介護現場は毎日鬼のように忙しくって、時間があっという間に過ぎていく。日々のスケジュールはいっぱいで、休憩が取れないことだってある。そんな中でボーっと思い返すことは出来ないかもしれないけれど、一度立ち止まることは大切な瞬間になるはず。

決まっている予定を“こなす”がためだけに介助をしていることはないだろうか。

食事を摂らなければ死んでしまうし、自分で口に運べないのであれば手助けも必要であろう。一人でお風呂に入れないのであれば、人の手を借りなければならない。尿便意が定かでなかったら周りが気を付けて清潔に保てるようにするべきである。介護を受ける人々が求めているのは自分一人では行うことが出来なくなった、あるいはその行為自体が認識できなくなったしまったことに対する、過不足のないフォローである。非常に個別性が高いものでもある。でもその希望や要望が複数になり、集団となったときにそれらをこなすスケジュールが生まれる(支援側がつくってしまう)。こなすことが“業務”となってしまったときに、本人が支えてほしいところとか気持ちとかは細かくて意に介さなくても良いものとして処理されてしまう現実を知っておくべきである。

“業務”自体が悪いわけではなく、“作業”化してしまうことを「悪」としたい。僕らの仕事=介護業務。介護の仕事の目的は何か。何のために今、この業務に当たるのか。これは利用者の暮らしにどんな影響を及ぼそうとしているのか。繰り返しになるが、人が人として生きていくために足らずを支え、ともに歩んでいくのが僕らの業である。何が足らないのか。どこまでできるのか。どうしなければいけないのか。自問と自省の繰り返し。

およそ一年前にも紹介したが、ある人の言葉で「介護にとって大切なことは、介護を目的にしないこと」というものがある。確かに僕たちは介護の仕事をすることで給金を得て生活している。だけどそれは「排泄介助を何回したから何円もらえる」という類のものではないはずである。「今日一日に予定されていた介助を全部やったから今日やるべきことは全て終わり」というものでもない。そういう目的で働いている訳ではないし、そこに給料が出ているとは思っていただきたくはない。もっとトータルで利用者さんたちを捉え、あらゆる知識と知恵をフル回転させてサポートする活動こそが期待されるところである。ICTが介護業界でも進んでいるが、ロボットに取って代わられない仕事だと言われるのはそういう部分を指しているのであり、それこそが最も面白いところだと、僕は考える。

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