4足歩行ベビーカー「サッチーⅡ」

1.育児における最終的解決

 人類初の四足歩行ベビーカーは、「育児における最終的解決」のキャッチコピーの下、世に放たれた。先進国中で同時発売されたそれは、あらゆるインフルエンサーの手を経て、その不気味な様相とは裏腹に市民生活に浸透していった。

 まるで卵のような形をしたボディは、上半分が強化ガラス製で、下半分が強化プラスチックでできている。外見はユーザーが注文時に自由に指定できる。金属光沢を模したもの、逆に輝きを極力抑えたもの、迷彩柄等、それはユーザーの望むありとあらゆる見た目になることができた。そして、そのボディから生えた4本の足。人工筋肉と小型の油圧ジャッキを用いたそれは、見た目は黒いタイツを履いた人間の脚にも見える。

ボディの内部は赤ん坊を最適な姿勢で寝させるためのスタビライザーや、空調機、スピーカー等、育児をより良いものにするための機能が搭載されている。そして何より、これに搭載された人工知能が、育児の最適解を常に使用者に提示し続ける。これにより、都会的核家族で子育てに忙殺される両親を救い、子どもにとってより良い育児体験を提供するのがこの製品の特徴だ。

 この’’育児における最終的解決’’はサッチーIIと言う商品名で売られていた。なぜその名前なのかはわからない。少なくとも、1号機が世に出された記憶はない。

 それにも関わらず、あの奇妙なゆりかごは街中に溢れている。あらゆる属性の育親が、あの卵型のロボットともに歩いているのだ。容姿からその人物を判断仕切ることは難しいが、経済的、文化的、あらゆる角度から多様な人間がサッチーⅡを使用している。

 どうして私がこんなにもこれに詳しいのか。それは単純な理由で、出産を無事に終えた妻にねだられて、製品カタログを隅から隅まで読んだからである。それを読むたびに、これが手に入ればどれだけ妻が楽になるのかを考えた。同時に、これを手に入れるためにどれだけの金が必要となるのかも……。カタログにはその価格は書かれていない。不思議なことに、ネットで調べた購入者のレビューにもそういった情報はない。価格や細かい情報の類は販売元に直接問い合わせるしかないようだ。やれ情報の海が目の前にあるというのに、どうしてこうも役に立たないものしかないのだろうか。サッチーⅡと過ごす麗しき生活に関する情報は沢山存在しているのに、私が最も必要としている情報はそこにはない。

 私は必要としているものを手に入れるために、webモニターを展開し、製造販売元である「レプタイル・ユニバース社」のwebページへと飛んだ。爬虫類・宇宙、だなんてふざけた社名だが、最近はこういう類の名称をした会社が多いことも知っていた。歴史と伝統のある名前ではなく、まるで猿に適当に引かせた単語カードを組み合わせて構築された社名があまりにも多すぎる。

2.ようこそ、レプタイル・ユニバースへ

 webページの中央には背広を着たトカゲ男の写真がでかでかと載せてある。これはこの会社のマスコットキャラクターなのだろうか。そしてその写真に被せるように、「宇宙的解決手法を用いた人類の救済」という文字が書いてある。これはなにかのジョークなのだろうか、それとも、この会社は本気でこんなものを信奉しているのだろうか。そして宇宙的解決手法とは一体何なのだろうか。私はその疑問を抱いたまま、サッチーⅡの製品ページを見に行った。

 同社が取り扱う商品はサッチーⅡのみらしい。その代わり、それを構成する様々なパーツを好きなデザインから選べるようになっている。「お子様一人一人に合わせたサッチーⅡ」という短いメッセージとともに、色とりどりのそれが紹介されていた。購入者へのインタビュー動画もある。余計なサイトを見る前に、ここに来て調べておくべきだったのかもしれない。

 サイト中程に「サッチーⅡについて何でもご相談してください」というバナーが貼ってあった。タップしてみると、インストラクターにビデオ通話で相談ができるらしいことがわかった。しかも、24時間いつでも対応とのことだ。私は出産のため入院している妻に、「今からサッチーⅡについて販売元に詳しく聞いてみるよ」と目元のグラスフォンからLINEを送った。すぐ既読が付き、「ありがとう」というメッセージとともに、ハートを抱えたウサギのスタンプが送られてきた。その直後、愛する我が子の写真も届いた。

 モニター側でビデオ通話を起動すると、画面には「しばらくお待ち下さい。それは新たな星が生まれるほどはかかりません。」というコズミックジョークに溢れた文章が表示された。新たな星が生まれる前にたいていの人間は死んでしまうだろう。この一文だけでは私がどれだけ待たされるかは何も分からない。

 しかし、2分も待つことなく画面が切り替わり、そこにブルーのスーツを着たトカゲが現れた。

 「お客様大変お待たせいたしました。私はサッチー・アシスタントのラプトフォンと申します。」

 トカゲの話す流暢な日本語に私は返答することができなかった。時刻は23時を周っている。まともな会社であれば働いている人間等いない。(インドや中国のような国ならまだしも、『生き方改革政策』の進んだ日本ではまずありえない)。

 「お客様、マイクの調子が悪いのですか?それとも私の日本語になにか問題でも?申し訳ありません、普段はヨーロッパ系諸言語をメインスピークにしているもので、日本語は第3言語レベルしか持っていないんです。」

 「いや、君の声は聴こえているよ。素晴らしい日本語の発音だし、当然意味だって通じている。ただあれだ、君の見た目が気になってしまって」

「ああ、これはどうかお気になさらずに。あと5分もお話をすれば慣れますよ。それで本日はどのようなご要望で?」

 このトカゲは無理にでも会話を続けるつもりらしい。まあしかし、目の前にいるわけでもない。このトカゲはあくまで画面の向こうにいるんだ。それに、なんだか筋が通っているようにも思えた。レプタイル・ユニバース社のトカゲのインサイドセールスなんて、人生でもなかなか出会えるものでもない。

「ラプトフォン、実はおたくのサッチーⅡを妻が欲しがっていてね。僕もこの商品はなかなかいいものだと思っている。ただ、肝心の値段がどこにも載っていないんだ。それでは予算感が掴めないし、買うか買わないかの検討もできない。」

「それは大変ご迷惑をおかけしました。いくぶん、サッチーⅡの価格体系は複雑なものとなっておりまして、私共がお客様に直接ご説明をする手はずになっているのです。」

「というとあれかい?オーダーメードの複雑さに比例した価格体系にでもなっているのかい?」

「それも一部ありますが、サッチーⅡの価格の複雑さを決めているのはオーダーメード性だけではないのです。サッチーⅡには多様な利用プランと割引プランがございます。もしよろしければそちらについてお話させていただいても?」

「ああ構わない。ただ君は大丈夫なのか?もう夜も遅い。こんな時間にまで働くことはないだろう。」

「それは問題ございません。弊社の本社は地球上にはございませんから、地球のあらゆる国家・組織からの法的制限は受けません。もちろんコンタクトセンターは地球上のあらゆる都市にございますし、必要に応じてご訪問もさせていただきますので、その点はご安心ください。」

 本社が地球上にないなんて、よく作られた営業用スクリプトだ。彼らのこの販売スタイルも人気の秘密なのかもしれない。まるで映画に出てくる宇宙人と取引をしているような気分になってくる。

「まずサッチーⅡのベース価格ですが、こちらは現在の日本円で1億円となっております。弊社の利益は1台につき200万円ほどで、他は全て製造費等に消えます。」

私は思わず顔が引きつった。たかがベビーカーに1億円?馬鹿げている。ただ、この日本でそんなものにそのような大金を払える人間はそうそういない。それなのにここまでこの製品が世に広まっているということは、それなりの割引プランがあるのだろう。ローンか、はたまたモニターキャンペーンのようなものか。

「さすがに1億円も支払えないな。」

「それは存じ上げております。第4次東南アジア戦争以降の、この地区の平均的な収入額を当然我々は理解しております。」

「あれは大変な戦争だったな。マレー半島が衛星からのcernキャノンで吹き飛んだ光景は今でも憶えているよ。まあそれはいい、じゃああれかい、やはり何かしらの割引プランがあるのかな?」

「仰るとおりです。我々は様々な割引プランをご用意しております。」

「サッチーⅡが一番安くなる割引プランだといくらになる?最大限使えるものは使いたいんだ。」

「月々3,000円、年間一括払い33,000円のレンタルプランがございます。もちろんこちらでもサッチーⅡのカスタマイズはできますし、部品やOSにアップデートがあれば適宜行われます。ただ、こちらはお子様の様々な個人情報をサッチーⅡが収集します。」

随分と安くなるものだと驚いたが、個人情報の部分が気にかかる。いったいこの機械のゆりかごは何を集める気でいるのだろう。

「その個人情報っていったいなんなんだ?」

「全てです。サッチーⅡは対象年齢を0歳から5歳としています。3歳を過ぎれば中に乗ることはほとんどできませんが、育児の良いパートナーとして役立ちます。サッチーⅡはその過程で、お子様の身体的・心理的データを収集します。また、ライフイベントや生育環境等、ありとあらゆる情報を集めます。」

「集めて一体どうする?」

「次の生品開発や、サッチーⅡの改良に利用します。データは全て母船のデータベース内に収集され、地球のあらゆる言語とは隔絶された我々の言語に処理されます。」

「母船?私は今真剣な話をしているんだ。」

「私も真剣です。母船は月面にあります。そこまでのデータ転送の過程で、地球上のネットワークを経由することもありません。」

「いい加減にしろ!月だの宇宙だのと!君たちは宇宙人だとでも言うつもりか」

「ええ、おっしゃるとおりです。我々は別の銀河より派遣された宇宙人です。」

そこで私は通信を切った。この企業のふざけた態度に嫌気が差したのだ。集められた我が子のデータが得体のしれない企業に使われることも嫌だった。現に、第4次東南アジア戦争の際は、シンガポール政府の国民監視システムがクラッキングされ、国民の遺伝データが流出している。それをもとに作成された変異剤によって、多数の人間が虫に変わったニュースは忘れることができない。

 それ以来地球上のあらゆる企業がユーザー情報の収集を控えているのだ。金額的な賠償責任以上に、社会にもたらすダメージの大きさを考えて自制しての行動だ。それをレプタイル・ユニバースは、地球の法規制を受けないだなんだで無下にしようとしている。

 私は冷蔵庫からクイックビアを取り出すと、一気に飲み干してベッドに潜った。酔が回るとともに、先程の怒りが脳内から去っていくのが感じられた。妻になんと説明しようか、そんなことを考えようとした矢先に眠りに落ちた。

3.魅力

 翌朝、すっきりと目覚めた私は早々に身支度をし、朝食を取り、家を出た。地下30階型のマンションは昨年買ったものだ。東京地下開発公社-旧半蔵門線-九段下区画にある一室だ。いい値段はしたが、旧歴の時代に作られた核シェルター区画を転用した物件のため、付近の家々と比べると幾分安い買い物だった。

 汚染歴のない地方部に暮らしながらVRオフィスで働くことも考えたが、すでに核兵器が使われてから十分な時間が経っていることを踏まえると、都心に残って暮らすことに不安はない。地下都市の暮らしも良いもので、年間を通して調節された気候や、合成品とは言え旧世代よりもまともな空気を吸って生活できることは幸福に他ならない。

 朝食用のチューブを吸い終えると、無煙タバコを点火しながら家を出た。職場まではトラベーターで20分程だ。その間、グラスフォンを使ってニュースを見ていればいい。

 それにしても、今日はやけにサッチーⅡが目につく。昨晩あんなことがあったせいか、街中を歩く姿が気になって仕方ない。職場への幼児同行が奨励されてから、男だろうが女だろうが、サッチーⅡを引き連れて通勤する姿をよく目にするようになった。壁面広告にもサッチーⅡが描かれている。私は昨晩それを拒絶したが、それはもはやインフラ同様に、我々の生活にとってはなくてはならない存在になっているのかもしれない。

 同僚の箱崎がトラベーターに乗ってきた。私が手を上げると、彼は私の隣までやってきた。その後ろには、彼のサッチーⅡが着いている。レザーフェイクを模したボディで、見た目は足が生えたボストンバックのようだ。

「箱崎、お前もまさかサッチーⅡを連れて出勤するようになるとはな。」

「おい、随分前からそうしてたじゃないか。もう半年はこうやってるぜ。そういうお前はいつ買うんだよ。」

そこで私は事の顛末を彼に伝えた。

「ああ、あれは慣れないうちはいらつくよな。でも買って2周間もすれば慣れるぜ。」

「そういうもんなのか。なあ、箱崎のところはいくらのプランなんだ?」

「それは言えない決まりなんだ。契約上の特約みたいなもんで、契約プランを家族以外に話すことは禁止なんだ。本来なら、サッチーⅡを持たない人間にこれについてべらべら話すのだって駄目なんだぜ。まあ、お前の場合はもうユーザーみたいなもんだろうけど。」

「やめてくれよ。こんな薄気味悪いもの……。」

その時、箱崎の後方に控えているサッチーⅡが言葉を発した。それは女性の声で、綺麗な日本語を話した。

「ご主人様、次の乗り換え地点で人身トラブルが発生したようです。このまま乗り続けると5分後にこのトラベーターは一時停止します。おそらく復旧まで15分程度はかかりますから、次の側道に入ることをオススメします。よろしければ私がアテンドいたしますが、いかがいたしますか?」

「宜しく頼むよ。なあ、サッチーⅡは便利だろ?こうやってトラベーターのトラブルを事前に察知して、別のルートを提案してくれるんだ。多分サッチーⅡ同士で通信してるんだろうな。」

「全てはお子様のためです。それでは私が先導します。」

サッチーⅡは箱崎の前に立つと、そのまま私と彼を別のルートに案内した。よく見ると、人々が連れたサッチーⅡがそれぞれのルートを案内している。全員を同じ迂回路に流すと別のルートもパンクするからだろうか、サッチーⅡは全体最適を意図して行動するのだろうか。

 側道に入りしばらく立った頃、私のグラスフォンにトラベータ通知のポップアップが出た。新地下交通による公式アナウンスだ。いつもトラベーターが停止してから言い訳とばかりに表示されるので、きっと少し前にトラベーターは停まってしまっていたのだろう。今日は箱崎のおかげで助かった。

 職場についてあらためてオフィスを見渡すと、サッチーⅡが至るところに座っていた。彼らは狭い場所では二足歩行をするようだ。オフィスの隅で二本足で立ち上がっているものもある。その姿は実に高貴だ。人が近くを通れば自然とスペースを開ける。VR出社用のダミーロボットがのそのそと歩いている姿と比較すると、その技術力の高さが伺える。やはり値段分の価値はあるのかもしれない。

 ただ、この会社の給与では割引プラン無しに買うことはできないだろう。ということは、ここにいるサッチーⅡの殆どが子どもの個人情報を集めることと引き換えにこの場にいるということになる。だが、どの持ち主もそんなことを気にしてはいないのだ。彼らが生贄に捧げた子どもの情報は、サッチーⅡのもたらす利便性の前では霞のようなものなのだ。

 帰宅後、私はレプタイル・ユニバースのwebページを訪れた。そうして、昨日タップしたものと同じバナーをタップした。画面にはレプトフォンが現れた。

「昨晩はすまなかった。1日考えてみたが、これを買わせてほしい。プランは昨日提案されたもので問題ない。」

「良い決断です。お子様を思う複雑な感情はときに一時的な過ちを生みますが、こうして良い決断をされたのですから何の問題もございません。それでは、契約を進めましょう。」

4. 架空電脳人

 トカゲ男との商談が終わった。不思議なもので、サッチーIIを買うと決めてからは、彼の言うコズミックジョークの類が腹立たしくなくなっていた。サッチーIIを買うという大きな課題を達成したことで、頭の中を占めていた「やらねばならない」という感情が処理でき、それが結果として余裕を生み出したのかもしれない。

 私は妻に報告も兼ねて、あるURLを送った。そこからサッチーIIの見た目をオーダーできる。これを1番欲しがっていたのは妻だ。だとしたら、彼女が最も欲しいと願う姿形をしていてほしいと願うのは自然な感情だろう。

「ありがとう。私が好きにデザインしていいの?」

「もちろん。君が一番欲しがっていたんだから、君が好きに決めていいよ。私も連れて歩くだろうから、あまり派手な柄にはしないでほしいけど。」

「わかった。金額は大丈夫だった?」

「それは心配いらないよ。僕だってそこそこ稼いでいるんだ。」

私はクイックビアを飲みながら、自身の決断とそれによってもたらされた妻の喜びを感じていた。何か大きな物事を成し遂げたわけではない。ただ買い物をしただけなのだが、私は大きな幸福感に包まれていた。

 翌朝、妻からデザインが決まったとの連絡が来た。どんな見た目にしたかは到着するまで教えてもらえないらしい。到着は1週間後、ちょうど妻が退院する日の朝だ。早朝私と合流したサッチーⅡは、妻の病院へとともに向かう。そこで妻と愛する息子とご対面だ。

 私は普段どおりのモーニング・ルーティーンを終えると、会社に向かって家を出た。道中、同僚の箱崎といつものように出会った。普段は直接会話をするのだが、今日は特別な話題でもあるのか、箱崎はグラスフォン越しに脳波会話を求めてきた。

「これを使うなんて珍しいな。どうした箱崎。」

「ちょっと仕事で愚痴を言いたいことがあったんだよ。」

「いったいなんだ。官邸からの圧の話なんかは聞きたくないぞ。」

「そうじゃない。まあ似たような話なんだが。カクデン(架空電脳人)の会話内容について、レプタイル・ユニバースから抗議が来た。サッチーⅡへのネガティブな話題選択は全て排除しろって。」

「おかしな話だな。カクデンなんて内務省とウチの会社の担当部署しか知らないはずだろう。」

「そうなんだよ。それで内務省からも『どうなっているんだ』って追求があってさ。あの鉄仮面に報告しなきゃいけない。ほんとどうなってるんだよ……」

「もしかして、サッチーⅡを経由してばれたのか?」

「それはないと思う。うちの部署は外部機器の持ち込みは一切駄目だから、サッチーⅡは総務課のオフィスにまとめておいてあるんだ。仕事資料の家への持ち帰りもないし、VR出社の人間も誰一人いないし……」

「となると、誰かが意図的にばらしたのか」

「それもなかった。昨日のうちに全員脳波スクリーニングを受けたんだ。その結果うちの部署は誰も黒ではなかった。たぶん今日あたりお前みたいな協力者にもスクリーニング部隊が行くと思うから、それで結果はわかると思うが。」

 カクデンー架空電脳人とは、私の会社が秘匿的に行っている事業の1つである。箱崎のいる部署がその運用や維持を全て担っており、その他に各部門の人間が正式な組織図上ではわからないように部分的に関わっている。

 カクデンはSNS上に存在する架空の人間だ。一般人と見分けつかないほど精巧なアカウントが作成されており、強化計算機が250通りのパーソナリティ・パターンを用いて、投稿や返信を行っている。ビデオ通話にも対応しているし、もしものときには義体も用意されるので、傍目からはそれが機械だとはわからない。

 カクデンは世論誘導のために作成されたマシンであり、内務省からの要望に沿ったイデオロギーで国民を導いていく。勿論、一辺倒な意見ではなく、適切に反対意見を述べるカクデンの集団もいる(ただし、当然誘導したい意見とは反対のカクデンは多少穴のある主張をする)。筋書き通りに演技をする役者のような存在なのだ。そして、そんなカクデンはこれまでの実績から、政権にとって大変重要な存在となっている。「生き方改革」、「第5次改正派遣法」、「若年者偏重雇用法」、「首都分散特別法」等、この国の在り方を変えた場面では、常にカクデンによる意見誘導が機能していた。

 カクデンの存在はネット上では一種の都市伝説になっているが、その存在は当然公式には認められていない。それが今回、レプタイル・ユニバースからカクデンの意見誘導に文句が来たのだから、誰だって驚くのも無理はない。そもそも、うちの会社に直接それが来たこと自体がおかしな話なのだ。内務省の協力会社の全てに手当り次第に送っているのかもしれないが。

 出社後、デスクに座るとすぐに部門長の大川がやってきた。

「ちょっと時間をくれないか?田崎社長が新しく買ったドローンの調子が悪いらしいんだ」

「田崎さんはまた新しいのを買ったんですか。毎度毎度勘弁してくださいよ笑」

そう言ってデスクを立った私を、同僚たちは「またか」という目線で見て笑っていた。社長の田崎は時々ハイテク玩具を買っては、操作に困って私を呼び出すのだ。これも人数の小さいオーナー企業だからこそかもしれない。

 社長室に向かうと思っていた私を、大川は会議室へと連れて行った。そこにはダークスーツを着た義体の男がいた。信号機のような赤いランプがジャケットから顔を出している。国家公務員の公務用義体だ。

「もう聞いているかもしれないが、カクデンの件で色々あってな。お前にもスクリーニングを受けてもらうことになった。あとはこちらに任せる。」

大川はそう言うと会議室を後にした。その直後、ダークスーツの男が口を開いた。

「内務省調査課1班の掛口と申します。すでに状況は同僚の箱崎さんから聞いてらっしゃるかと思いますので、早速脳波スクリーニングを行わせていただきます。ここにかけてください。」

「大方の話は今朝聞きましたが、どうしてそれを?盗聴でもされているのですか?」

「そんなことはしておりません。脳波スクリーニングによってそのような諜報の類は不要となりましたので。」

「そうですか。ここでするのですか?」

「ええ。追加調査が必要になれば霞が関まで来ていただくことにはなりますが、今日はいったんここで済ませます。記録を見ましたが、これまでに脳波スクリーニングを受けたことはない、であっておりますか?」

「ありません。国家に反逆しながら生きてきたつもりはないので。」

赤ランプから出る機械的な音声が静かな会議室に響く。彼は机の下に置いていたカバンから器具を取り出すと、私に説明を続けた。

「これから30分程度、この脳波送信機を頭に取り付けてじっとしていてもらいます。その間は何を考えていてもかまいません。機械があなたの頭の中を勝手に覗いて回ります。また、機械が動いている間に私から質問をすることもあります。その際は焦らずに真実を述べてください。脚色や嘘はすぐに機械が検知しますので不要です。何か質問はありますか?」

「いえ、特にはないです。」

私がそう答えると、掛口は大量のコードがついた水泳キャップのようなものを私に被せた。もっと仰々しいものを想像していたが、実情はなんだか可愛らしいもののようだ。

 掛口は水泳キャップの先から伸びるコードを自身の頭に差した。赤ランプの裏側は接続端子になっているのだろうか。

「それでは、国民番号NT435902の脳波スクリーニングを行います。事前通告として、本スクリーニングの情報は即座に文書化され、映像データ・脳波データとともに国民番号に紐付けて管理されます。それらの情報は第1級国家公務員および、それと同等の権限を有すると規定された職員のみがアクセス可能です。そのため、この情報が内務省内で不用意に公開されることはありません。また、あなた自身の請求があれば、これらのデータのうち、文書データと映像データの複製を本省は規定の日数後に提供します。ここまでで質問は?」

「いいえ」

「よろしい。このスクリーニングは治安維持法-外事治安維持法に基づき行われます。本スクリーニングは国民番号NT435902の同意を得られたものではなく、同法の定める基本的人権の一時的停止に基づいて行われます。私が今言ったことに齟齬はないですね?」

「ありません。誰も好き好んでこんなことしませんよ。」

「皆さんそうおっしゃいます。では始めます。リラックスして、適当に何か考えていてください。私の質問には焦らず、真実を述べてください。」

「わかりました。」

それから、数分程、この興味な赤ランプとのにらめっこが続いた。私は目の前にいる国家公務員用義体に関することを考えていた。

 戦後のサイバネティックス技術の普及は、部分義体の拡張から全身義体への移行を促した。特定の職業につく人間は、生身の身体を捨てて、私用の義体と職務用の義体を持つようになった。

 彼らの多くは治安維持に携わる公務員や、戦地に赴く軍人だった。身体に直接的な危害が及ぶ危険性の高い人間達は皆、意識のコピーをコンピューター上に取り、換えの効く身体で職務にあたった。それは「高貴なる職務に当たる者の犠牲と貢献」と評され、日本を含めて全体主義的な色の強い国に広まっていった(やがてドイツ・ヨーロッパ連合とアメリカもその流れに乗ったため、義体技術は世界的に進歩したのだが)。

 この男の身体は取り調べ用の調査機体だろう。通常の義体はその見た目をできるだけ人間に近づけるものだ。だが、この男のように、ある程度の権威性を示しながら、何者かから情報を吸い出すような人間はこのタイプの人間離れした義体を用いる。以前の会社で義体用の代眼レンズを売っていた私にはそれがよくわかった。

「おや、サッチーⅡを購入されるんですね。」

「あ、はい。そうです。」

掛口が突然質問してきた。とっさのことで反応が遅れた私は、なんとも怪しい返答の仕方をしてしまった。

「レプタイル社の従業員と初めて会うと驚きますよね。無理もない。」

「ええ、まさかトカゲが営業してくるなんて思いもしませんでしたよ。」

「彼らの正体は何だと思います?高度な義体技術を悪ふざけに使っているジョーク集団か、それとも本当の宇宙人か。」

「それは掛口さんの方がご存知なのでは?こういう調査もされてるんですから。」

「まあそうなんですが、国民の皆様がどう考えているのか、たまに気になるんですよ。地球上の既存のテクノロジーを凌駕した製品をあの価格で与えてくるような連中に対し、当然どこの国家も警戒心を持ってはいます。ただ、法令違反をしている疑いもない以上、我々にできるのは外堀を嗅ぎ回るくらいなんです。」

「この国の政権はもっと強権的かと思っていましたが、そういうわけでもないんですね。」

「我々は穴があれば全力でそこを刺しに行きますが、穴がなければそれをただ待つだけなんですよ。もどかしいときもありますが、それがこの国が定めた決まりなんです。我々は機械の身体になっても国家に仕える公僕ですから、規則を破るようなことはしませんよ。」

「でもそれも、規則がそれを許したら話は別なんでしょうね。」

「その時はその時に合わせて動きます。プログラムの中身が変われば機械は振る舞いを変えるものですから。あ、サッチーⅡは今週末に届くんですね。」

「ええ、ご存知だと思いますが、見た目は妻に選ばせました。」

「良い贈り物です。私は子どもがいないので使いませんが、妹がこれを使っていますよ。親ばかりに苦労をかけさせた時代がやっと終わるんですから、我が国の出生率の問題にとっては良い解決策でしょうね。兄としても喜ばしい。」

「でもサッチーⅡとこの問題は別なわけですね。」

「ええ、私個人の考えと職務は切り離されてますから。」

会話が終わると、掛口は私の頭から脳波スクリーニング機を取り外した。自身の頭からもコードを引き抜くと、それをカバンにしまった。

「これでスクリーニングは終わりです。見たところ、あなたに怪しい点はなさそうだ。」

「それは良かった。そう言えば、サッチーⅡはこのまま購入してもいいんですか?」

「問題ありません。今更キャンセルするほうが怪しいでしょう。ただ、あれの前では仕事の話はしないでください。音声認識機能が搭載されていますから。また、今日のことも内密にしてください。カクデン含めて、世の中に知られるとまずい話ですから。」

「わかりました。この会社とは秘匿契約を結んでますから、そのあたりは当然秘密にしますよ。」

私がそう言うと掛口は頭を下げた。会議室を出た私は何事もなかったかのようにオフィスへと戻った。オフィスの隅には主を待つサッチーⅡが列をなして立っていた。

5.サッチーⅡが来た日

 それから数日が経った日の朝、地下太陽で目を覚ました私は、グラスフォンに届いている見慣れぬ通知に気がついた。

『おはようございます。地球の素晴らしい朝とともにサッチーⅡが参ります。玄関のドアを開けてください。』

私は寝癖を手櫛で整えながら玄関に向かうと、ボイス・ロックに向かって「開けてくれ」と唱えた。扉はいつもどおり、一人でに開いた。そこには、ミッドナイトブルーのボディをしたサッチーⅡがいた。それは私の家に入ってくると、前足を器用に曲げ-それはまるでお辞儀をしているようだった-ながら発声した。

「ご主人様、本日よりお世話になります。私はサッチーⅡのサージュと申します。この名前は奥様よりいただきました。」

「やあ、とにかく入りなよ。」

「ありがとうございます。」

サージュは玄関に入ると、後ろ足で扉を締めた。

「足の裏を拭いてあげたほうがいいかな?」

「いいえ、大丈夫です。電磁脚ですので、汚れは付着しないようになっています。」

妻が注文時に名前と音声性別まで決定していたらしい。サージュは綺麗な日本語で私と会話している。その声に機械的なところはない。実際の人間と会話をしているような感覚に陥った。

 サージュと私はリビングまで来た。私がコーヒーを淹れようとすると、サージュはそれを制し、前足を使って代わりにやりはじめた。よく見ると、黒い人工筋肉の足先から、金属製の指のようなものが10本程出ている。腕の代わりをするときはこうなるのだろう。

 コーヒーの味は格別だった。私が自分で淹れるよりも美味しい。

「君はそんなことまでできるんだね。」

「ええ、ご主人さまの代わりに家事一式を行えるようにプログラムされております。ご主人さまがお子様と触れ合える時間を創り出すことも私の役目です。」

「逆に僕は君に何をすればいいんだろうか?」

「電源基盤へのアクセスキーを与えてくださいませんか。そうすれば私は一人手に充電し、働き続けることができます。」

それを聞いた私は、家電用の電源基板のアクセスキーを彼女に教えようとした。驚いたことに、ホーム・マネージャーの接続先家電一覧にサージュが表示されていた。

「君はホーム・マネージャーにも繋がるのか。ということは、君一人で家中の家電を制御できるってこと?」

「勿論です。担当営業はそこまで伝えていませんでしたか?」

「家事の手伝いくらいならできると聞いたけど。」

私がそう言うとサージュはため息をついた。

「担当営業はいつもそうなのです。我々サッチーⅡが自らについて説明できることを知っていて、細かい説明を省いてしまうのです。私はご主人さまがお持ちのあらゆる電子機器に接続できますし、それにより生活上のあらゆる物事でご支援することができます。ご主人様はお仕事とお子様との時間とに集中することができるのです。」

グラスフォンに再度通知が来た。今度はサージュからの接続許可依頼だった。私は反射的にそれを承諾した。

「これにより、ご主人さまのスケジュールを私が覗けることができます。でもご安心ください。設定により踏み込める範囲は制御できます。デフォルトでは個人的なやりとりには首をつっこまないようになっております。」

サージュはそう言うとキッチンヘ向かい朝食の準備を始めた。

「失礼ながらライフログを参照させていただきました。休日の朝はいつもトラディショナル・モーニングでございますね?ご用意させていただきます。」

確かに平日はチューブで食事を済ませる私も、休日は旧来的な食事を取るようにしていた。ちょうど昨晩鮭の切り身を買い、クッカーにご飯と味噌汁を作っておくように指示していたところである。サージュは冷蔵庫とクッカーの両方とも連携しているのか、実に簡単な手順で素晴らしい朝食を作り上げた。以前買おうとしていたAmazon製のホーム・アシスタントよりはるかに高性能かもしれない。

 食事を終える頃、サージュは出発時間とルートの提案をしてきた。

「9時30分に出れば大江戸ルート経由の快速歩道にうまく乗れます。30分もかからずに奥様のところへ到着するかと。それとも、個室をご予約いたしましょうか。」

「いや、それは帰り道でいいよ。ありがとう。」

「とんでもございません。奥様に到着時刻をご連絡しても問題ないでしょうか。もしよろしければ、代理メッセージか奥様のグラスフォンへの接続を許可していただけないでしょうか。」

「構わないよ。今接続を許可したから、君から直接妻に言ってあげてくれ。きっと喜ぶと思うから。」

「承知しました。」

すぐに妻からメッセージが来た。「すごいね。」という文字と、驚いて目を飛び出させたウサギのスタンプが届いた。

 それから予定時間になると、私とサージュは家を出た。公共スペースのまばゆい光を浴びると、サージュの身体は深い青色に輝いていた。金属光沢を模しているのだろう。卵型のボディに乱反射した光が、まるで夜間天井のようだ。(夜間天井がない時代の人々は、天候や人工灯の影響で夜空もろくに楽しめなかったらしい)。

 サージュの言った通りのルートで私は妻の入院していた病院区画まで来ることができた。受付でIDを伝えてから待つと、息子を抱きかかえた妻がゆっくりとこちらにやってきた。

 夢にまで見た我が子の姿に、このときの私の心はあらゆる物事を忘れていた。カクデンの存在が漏れたことも、内務省の人間に脳波スクリーニングをされたことも、そして傍らに佇むサッチーⅡの存在も。

 「私がこの子を連れて、あなたがサージュを連れてくると、なんだか人質の交換みたいね。」

妻の静香が笑いながらそう言った。変な冗談を言うところは変わらない。

「古典映画の007にそんなシーンがあった気がするよ。」

「スパイ映画にはつきものじゃない。あなたがサージュね。これからよろしくね。」

静香がそう言うと、サージュは一歩前に出てこう述べた。

「ご主人さま、お会いできて光栄です。また、私にこのようなお名前をくださってありがとうございます。」

「素敵でしょ。昔付き合ってた彼の名前なの。」

「おいおい。」

「嘘よ。この前見た映画に出てきた乳母の名前よ。それが子ども思いで本当に素敵だったの。」

「ご主人さまは冗談がお得意なのですね。」

「ええ、普通に生きていたって予定調和に飲まれて退屈になるだけよ。それを壊すような、小さな歪みを取り入れることで、きっと何事もおもしろくなるはずよ。」

静香は結婚する前からこのような冗談が好きな女性だった。別にふざけているような様子もなく、静かな顔つきで突拍子もないことを言うものだから、最初のうち私はよく戸惑った。それが気がつけば、彼女の冗談なしでは物足りなくなっていた。

 サッチーⅡがほしいと言ってきたときも何かの冗談かと思ったが、その時の彼女は真剣だったのだろう。いつもはおまけで付いてくる冗談がなかった。今どき珍しい自然胎盤出産を控えていたからかもしれない。多くの夫婦が受精卵に遺伝子操作を加えたものを人工子宮から産ませるのに対し、彼女は自らの肉体から子どもを生み出す事にこだわった。もちろん、必要な遺伝子操作は加えている。ただ、自然胎盤出産に対応できる医師がそんなにいるわけではない。そのために、今の東京では珍しいことに、病院を選んで通うことになった。私と静香がお世話になった医師は、旧暦の時代生まれの老人だった。全身義体によって不死に近い状態となった彼は、母親の子宮から胎児を生み出すことに対して非常に長けていた。

 静香は、出産の痛みから女性を開放するためのテクノロジーを彼女は自ら断った。政策上の外れ値的な振る舞いかもしれないが、私はそんな彼女を支持した。

 病院の向かいにはサージュが呼んでくれた『個室』がやってきていた。長方形の黄色い胴体から6本の脚が突き出している。我々が来たことを知るとそれは胴体からタラップを降ろした。中には人工皮革製のソファが向かい合うように据え付けてある。

 『個室』はCaterpillar社とテスラ・モーターズが共同開発した都市内移動用の小型ドローンだ。元は放射線の高い地表での移動用に開発された6脚型ドローンを、テスラ社が都市のトラベーターに載せられるサイズに改良した。そうして、自動操縦用AIを同社が開発し、安全対策用のシステムをCaterpillar社が開発した。それらは移動式の個室のようなものだったから、市民の間では『個室』と呼ばれていた。

 静香と子どもを乗り込ませると、続いてサージュが入ってきた。タラップが上がり、個室は静香に動き出した。トラベーターに乗るまでは6脚で歩き、それ移行はトラベーターに任せて移動する。

 柔らかな表情で子どもを抱きかかえる静香を見ながら、私は予てから彼女に聞こうと思っていた話をはじめた。

「静香、その子の名前、本当に君が決めるのかい。」

「ええそうよ。名付け機が候補を出してくれるって言っても、そんなの親のすることじゃないわ。」

「何も名付け機が勝手に決めるわけじゃないだろう。質問に答えればそれに沿った素晴らしい名前をつけてくれる。」

「名前はこの子にとって最初の贈り物なのよ。それをどこの誰が作ったのかわからないアルゴリズムにまかせてはおけないわ。」

 名付け機は親の負担を削減するために導入された機械だ。いくつかの質問に答えることで、アルゴリズムがその子にとって最適な名前をつけてくれる。実の親以上にその子にふさわしい名前をつけられるとして、今や多くの親がそれを使用する。

 それは昨今の世界的なトレンドによって生み出されたマシンだった。かつての大人たちが世界の未来を食い物にして栄華を誇った時代は否定された。今の大人の義務は、後の世代に自分たち以上の幸福を与えることだ。だから子どもを食い物にした犯罪は全て極刑になったし、教育も人間ではなくAIが行うことになっている。人間が自分自身で、自分以上に優れた存在を生み出せる時代はもう終わりかけていた。学習能力や理性ではすでに機械には敵わない。だからこそ、それら機械によって次世代を教育することが国家の基本方針として決まった。

 私が少しだけ関わっているカクデンでさえそうだ。最初にそれを考えたのは人間だが、すでにその処理ロジックは人間の理解の範疇を超えている。我々は保有するカクデンのリストなしでは、彼らを見分けることもできないのだ。

「あなたもこの子の名前を考えるのよ。機械はたしかに優れているけれど、そこには愛はないわ。私達が与えるのは愛なのよ。」

「お言葉ですがご主人さま、それでは何故私を購入されたのですか」

静香の言葉にサージュが口を挟んだ。主人の私見に疑問を挟んだ姿には驚いたが、サージュの言う言葉はもっともだった。機械に愛がないと言うのならば、何故あれを購入したのだろうか。

「サージュ、あなたは人間が造ったものではないのでしょう。あなたは機械かもしれないけれど、私達人間が生み出した機械とは別の存在だわ。」

「おっしゃるとおりです。私達はレプティリアンによって創造されました。」

「待ってくれ。静香、君はサッチーⅡ、サージュが宇宙人が造った製品だと知っていたのかい。いや、正確にはそう信じているのかい?」

「ええ。こんなに素晴らしいものを地球人が考えていたら、今頃下品な広告を打ちまわっているでしょう。それに、仮にそれが冗談だとしたら、私よりも面白い冗談だわ。」

静香はそう言うと、彼女の腕の中で眠る我が子に視線を落とした。遺伝子改良によってこれまで流行った全ての病とは無縁だ。ルックスは彼女の希望でいじらなかったが、知能指数だけは高めてある。

 個室が自宅付近までやってきたようだ。私達はそれを降りると、自宅に向かって進んだ。

6.宇宙からのブラックメール

 久しぶりに開かれたシークレットミーティングのために、私は自宅の端末からVR出社をしていた。この日全ての従業員が出勤停止となっていた。それはこの会議に参加する人間の匿名性を保つためだった。

 VR出社用のダミーロボットが何体も会議室に入ってきた。座る場所は完全にランダムだ。我々はお互いが誰かを知らない。ただ、集まっては秘匿性の高いプロジェクトに関する議論を行うのだ。それはもっぱらカクデンについてなのだが。ただ、今日は一人珍客がいる。内務省の掛口が会議室にいるのだ。彼は先日見かけたのと同じ赤ランプの頭に、グレーのスーツを着ている。

 議長席に座ったダミーロボットが口を開いた。それは変調された音声で、声や話し方だけでは個人を特定できない。

「昨日深夜、弊社あてにレプタイル・ユニバースから2通目の通告が届いた。内容はこうだ。『カクデンの話題に関する対応が遅かったので、我々の方で修正させてもらった』。確かに、我々の保有するカクデンのオピニオンは全てサッチーⅡを肯定する内容に変わっていた。そもそもカクデンのアルゴリズムはヘッドクォーターマシンからしか修正できなかったのではないかね。」

「それは確かにそうだ。一度野に放たれたカクデンは外部から意図的な圧力は受けない。カクデン同士で意見数や方向性の調整はするが、基本的にはヘッドクォーターからの指示によってしかオピニオンを変えることはない。」

すると掛口が口を開いた。

「そのヘッドクォーターは内務省保有のものが15台、そしてあなた方で保有しているものが5台で計20台だ。我々が保有しているものは事務局長の脳髄キーがなければアクセス不可能だ。あなた方のものはいくらかセキュリティがゆるいが、逆にここまで大規模なコントロールができるほどの権限は与えられていないはずだ。」

「掛口さん、お言葉ですが、そうであるならば内務省側で何か不手際があったのではないですか。おたくの鉄仮面が何かやらかしたのでは?」

ダミーロボットのひとつが強気な意見を掛口にぶつけた。

「その可能性は十分に考えられる。彼は半分機械とは言え、我々のような完全義体ではない。脳も純粋な人間のものだ。だからこそ、それ由来のミスを犯す可能性はある。」

「ほらね。」

「そう思い、今朝、事務局長の脳髄にスクレイパーを投入し、全ての記憶を吸い出した。その結果、彼はこの件には全く関与していないことが判明した。彼はここしばらくヘッドクォーターにアクセスしていないし、最近ではカクデンについて思考した形跡すらなかった。」

掛口がそう答えると会議室内がどよめいた。それは掛口が自らの上司にスクレイパーを使ったことへの驚き半分と、完全にこの件が手詰まりしたことへの驚嘆だった。

「とすると、この件はもう打つ手がないのでは。」

「今外務省と総理が西アメリカと会議中だ。その結果によっては、サッチーⅡの物理的排除も選択肢として取られるかもしれない。」

「この国のどこにそれだけの軍事力があるのです?日本だけではない、西米だってそうだ、どこの国も国境警備と治安維持くらいの暴力装置しか保有していないでしょう。」

「それでもやらねばならない。我々が保有しているシステムに改竄を加えるのは明確な敵対行為だ。それには対処しなければならない。失礼、直電が着たので少し黙ります。」

そういうと掛口は言葉通り黙り込んだ。

 これは驚くことになった。今やこの問題は国家間の協議をもたらす議題になっている。宇宙人のふりをした連中からの脅迫が、少なくとも一つの国家に明確な脅威をもたらしており、そしてその国の同盟国においても、頭を悩ませる問題になろうとしている。

 もはやサッチーⅡは現代社会に大きく入り込んでしまった。ユーザーである私なら分かる。あれは人々の生活を必ず変貌させる。地下都市と電脳空間で生きる多くの人間の営みを、あの金属の卵はより良いものへと変えていく。レプタイル・ユニバースもそれを確信しているからこそ、このように強行的な手段を用いてくるのだ。旧来世界でインフラストラクチャーを支えた多くのIT企業が、自社のシェアが高まった途端に暴力的な手段を持って市場を支配したことと同じだろう。彼らがどれだけ邪悪に振る舞ったとしても、もはや人々はそれを追い払うことはできない。それはすなわち、一度知ってしまった快楽を二度と味わえなくなることを意味するのだから。

 しばらくの沈黙の後、掛口が口を開いた。

「西米と我が国は全面的にレプタイル・ユニバースを指示することを決めました。どのような経緯があったかはきっと明かされることはないでしょうし、知ろうとするだけ危険な行為でしょうが、今我々が騒いでいる問題は、永久的に解決不要の問題へと変わりました。皆様、お疲れ様でした。」

7.予測者

 シークレットミーティングを終えた私はリビングへと向かった。静香が夕食を作っている。チューブではない食事を平日に食べることは久しぶりだった。彼女はとにかくチューブを好まない。古いスタイルの食事が好きなのだ。

 サージュは我が子をその体内で寝かせながら、静香に向けてジャズミュージックを流している。今流行しているポメント・リューのエレクトリック・ジャズだろう。私がリビングに現れたことを検知すると、サージュは冷蔵庫の方へ歩み寄り、ジェル膜の内部に片方の前足を入れ、そこからステンレス・ウォーターを取り出した。私はソファに座ってそれを受け取ると、無煙タバコを加えた。

 確かに私は喉が乾いていたし、ああいう会議の後だからこそ鎮静作用のあるステンレス・ウォーターが飲みたくもなる。だが、その欲求を見抜かれたことに、私は不安を覚えていた。日本と西米を従わせられる程の宇宙的企業、そしてそこが造ったハイテクなマシン。私はもしかしてとんでもないものを購入してしまったのかもしれない。

「あなた、まだそんなもの飲んでるのね。私が出産する前にもういい加減そういったものを飲むのはやめてって言ったのに。」

「これがないとどうにも落ち着かないんだよ。今日の仕事はやけに不安になることばかりだったからさ。」

「その不安を味わってこその人生でしょうに。サージュ、金輪際あの人にはステンレス・ウォーターを渡さないで頂戴。」

静香がそう言うとサージュは小さく頷いた。彼女の中ではあくまで静香の命令を聞くべきと判断されたらしい。まあ、僕も彼女の考えに従ってばかりだから、それは自然な帰結かもしれない。この家のヘッドクォーターマシンは静香なのだ。

「サージュ、君の中で眠っているうちの子だけど、今はどんな状態だい?」

「非常に落ち着いていらっしゃいます。心拍数も平常。まだ夢を見る年齢ではありませんが、きっとあと数ヶ月もすれば、こんな状態のときには素晴らしい夢を見るでしょう。予測では30分後に目覚めます。タンクは満タンですので、そのタイミングで授乳します。」

「それは良かった。よろしく頼むよ。」

サージュがいれば、旧世代の母親達が体験したような、赤子に付き合う眠れぬ夜を送る必要はなくなるのか。

「あなた、この子の名前を決めたわ。」

「もう決めたのか。」

「ええ、貴仁(たかふみ)にする。」

「また古風な名前にしたもんだね。」

「いいのよ。きっとまた時代は逆戻ると思うの。私達のおじいさん達が暮らしていたような時代に。」

「僕には想像がつかないよ。グラスフォンも無し、地下都市のような統制された街もなしなんて。」

「私達はほどほどの性能の機械に囲まれて、天然の空気を吸って、自分のことはある程度自分で行うべきなのよ。」

「サッチーⅡを求めた君の意見とは思えないな。」

「それとこれとは別。サージュとの出会いは私達にとってきっと良い未来をもたらすわ。」

 静香は時折プロフェシー・マシンのような発言をする。ある個人の未来を機械に予測させる技術は旧世代の終わりに大きく発展したが、結局予言の自己成就的ジレンマに陥り、その技術は凍結された。プロフェシー・マシンが出現する前は、予言ができる人間がいたそうだが、彼女がその末裔だとも思えない。

 先程のサージュの行動予測はきっとグラスフォンから私の生体データを取得してのことだろう。心拍数が上がっていた私に対し、もっとも自然で効果的な解決策を提示してきたに過ぎない。プロフェシー・マシンのように、遺伝データや家族の生涯データをもとに、その人間の一生を言い当てるようなことはしないと思いたい。もしそれが我が子、貴仁に向けられたらどうなるのだろうか。彼の生涯を寸分狂わぬまで予測し、それを彼自身に伝えることがあったら。彼はそれを指針として留めてくれるだろうか、それとも、旧世代のほとんどの住民と同じように、その予言に人生を狂わされてしまうだろうか。

8.トカゲの侵略者

 物理出勤の途中、普段どおり箱崎に出会った。いつのまにか彼との脳波会話が始まっていた。昨日の会議にはふたりとも出席していたようだ。話題は自ずとレプタイル・ユニバースのことになっていた。

 カクデンはあっけなく彼らに破れた。我々が精巧に作り上げたテクノロジーは、レプタイル・ユニバースに意図もたやすくコントロールされたのだ。それはきっと他の多くの物事にも波及していくだろう。例えば、この地下都市の空調システムが停止させられたらどうなるだろうか。

 過去にあった大規模な空調故障は、中国北京で起きたテロが原因だった。人為的に引き起こされた障害だ。それ以降、全ての地下都市は空調システムのセキュリティに最大限の注意を向けている。個人だってそうだ。最大1週間分の呼気転換機を全員が持ち歩いているし、家の中にはその期限を半年程度に引き伸ばしたものが搭載されている。だが、レプタイル・ユニバースがそれを本気で潰そうとしたら、きっと我々はあっけなくこの巣穴の中で死んでしまうだろう。

 我々の会話はやがてスクレイパーの件にいきついた。

 「しかしまあ、内務省のランプ頭が鉄仮面の脳にスクレイパーをかけるなんて驚いたな。」

「ああ、箱崎が普段愚痴まぎれに言う冗談を本当にするやつがいるなんて思いもしなかったよ。」

「ああ、あの禿頭をスクレイパーにかけて内部情報を全部ばらまいてやる!ってやつだろ。俺も驚いたよ。自分の上司の頭の中を除くやつがいるなんて。」

 内務省事務局長の鉄仮面はこの時代の政府関係者にしては珍しく人間だ。ただ、オカメの面を模した金属製の仮面を常につけているせいで、下手な義体よりも印象的な見た目をしている。あれは政治的高度演算器と常に接続されており、それにより、鉄仮面は人間離れした意思決定が行える。誰もが職務遂行のために義体を使用している中で、鉄仮面だけは人間の肉体を保ったまま、義体連中を凌駕するほどの職務遂行能力を得ている。だが誰もそれへの不満を口に出さないし、多くの国民はそれを疑問にすら思わない。21世紀に高度なショーとなった政治は、この時代、カクデンの力によってもはや着目すべき事項ではなくなっているのだ。我々は政府決定には従うが、それに抗うことや不満を抱くこともない。ある人間が無意識的に行う癖のように、我々は国家権力に従うのだ。

 そんな最高権力者の一人である鉄仮面に対し、掛口はスクレイパーを使用した。スクレイパーはその人間の脳内の記憶を全て吸い出すための機械だ。もとは西米が使用していた機械が、戦後日本に持ち込まれたと聞いている。その使用は治安維持法によって合法にされてはいるが、それを自分の上司、ましてや鉄仮面に向けて使うやつが出てくるなんて誰も想像したことがなかっただろう。

「掛口ってやつは、俺たちの想像以上に怖い人間なのかもしれないな。」

「おい箱崎、人間以上に怖いものなんてないだろう。」

「それもそうか。」

 職場に着くと、私はグラスフォンを職務用のアカウントに切り替え、モニターに接続した。仕事相手からやってくる無数の連絡のうち、アシスターが判断しきれなかったものがモニターに映し出される。

 『丸の内居住ユニットの新陳代謝進行表』

 『台場地盤の塩除去装置の仕様書』

 『リスト9の修正について』

 どれも、私じゃなくてもできる仕事だ。同様の経験を積んだ人間がいればいいし、あと数年もすれば、アシスターの高度演算機能が強化されて、この仕事は機械にとって変わられるであろう。私のように、機密事項に触れることの多い人間は真っ先に最優先で機械に取り替えられる。それか、義体化を勧められアシスターと直結した生活を送ることになるかもしれない。多くの役人がすでにそうしているように。

 私は無煙タバコを咥えると、来たるべき未来のことは忘れ、目の前の雑務に集中した。まずは丸の内の件からだ。

 ここの居住区のユニットは戦後すぐに埋設された旧型タイプだ。見た目は今風にしてあるし、ユニットのファームウェアも優先的に更新はしているが、根本的な設計思想が古すぎてそろそろ使い物にならなくなることは明白だった。おまけに、居住空間適正化法の改正により、2060年以前に設置された居住ユニットの空調機構を一新することが命令された。夢の島に引いている換気孔が破損されたことを想定して、濾過装置を取り付けることになったのだ。

 私が担当するのは居住者向けのPRプランの作成と遂行だった。居住者と周辺住民が文句一つ言わないように、この計画の素晴らしさをどうにかして植え付けていくことが重要になる。まあ、多くの国民が政権与党側に付き従う現代において、そこまで大変な仕事ではないのだが。なおさら、丸の内居住区の住民はTier7以上しかいない。国の機関や私のように国から仕事をもらって仕事をしている人間以外住んではいないから、私がわざわざ大規模なPRを進める必要なんて本当はないのだ。きっと単なる予算消化のための仕事だろう。

 オフィス内の大型モニターが突如発光した。従業員が皆そちらに視線を向ける。モニターには鉄仮面が映っている。久しぶりの政権放送だ。私はその時、きっと話題はレプタイル・ユニバースについてだろうと察知した。

「内務省より、政府の新政策に関する情報をお伝えします。我々はかねてから、この国の少子化対策のために多くの時間と力をかけてきました。胎児遺伝子改良や出産補助剤の振興等、テクノロジーに関する政策。また、ひとり親への給付金や出産に関するあらゆる費用の国費対応等の財政的支援。それらは結果として、この国の出生率を戦前水準の1.26%にまで押し戻しました。

 我々は誰も産まれなかった魔の2046年を教訓とし、戦前の政府が取っていた高所得者や大企業を優遇する政策の一切を廃棄し、真に国民一人ひとりを対象とした政策の立案と実施に努めてまいりました。

 今日、我々の政策に新たな一片が加わります。我々は西米とレプタイル・ユニバース社との連携の下、自立式4足ベビーカーの国民への総配布を決定いたしました。これは我が国の出生政策を大きく変える出来事となるでしょう。詳細は追って文書にて配布いたしますが、この国の育児の在り方が大きく変わるということだけは、先んじて皆様にお伝えしておきます。」

 放送が終わると、まるで何も起こらなかったかのように、誰もが自身の仕事に戻った。我々はそのような条件反射的教育を受けている。国が何を言ったところで、何も疑問には思わないのだ。

 それから数時間経って、人事課から新たな社内規定が共有された。

1.職務中にサッチーⅡと職務用グラスフォンを接続することを許可し、
 サッチーⅡからのあらゆる情報提供を受けることも許可する。

2.これまで禁止していた秘匿エリアへのサッチーⅡの持ち込みを許可する。

これにより、我々が保有している職務上のあらゆる秘密はサッチーⅡに筒抜けとなる。この国は知らない間に、トカゲたちに負けたのだ。

 すでにネット上では、この政策への肯定的な意見が多くを占めようとしていた。カクデン達が大急ぎで仕事をしているのだ。3日も経てば、誰もこの政策に疑問を抱かなくなるだろう。

 グラスフォンにサージュから連絡が来た。私がこれまでサッチーⅡに支払った金額が返金され、今後それらを支払う必要もなくなるとのことだ。たいした額は支払っていないのだが、これはこれで良いニュースだろう。

 帰り道、見たこともない数のサッチーⅡが公共区画を歩いていた。箱崎の調べによると、彼らは都内だけでなく、この日本の国土全体を走破する気らしい。北は青森から、南は佐賀まで。日本中の子育てを行う夫婦のもとに、自らの脚で歩いてむかうそうだ。そのうち、中国の旧北海道省からサハリンへと向かい、ソビエト連邦にまで歩いて向かうようになるかもしれない。西ヨーロッパに暮らす数少ないEUの国民のもとにも行くかもしれない。

9. 収穫

 それから半年経って、今や人間と同じ数だけサッチーⅡが存在するようになった。彼らとカクデンのおかげで日本の出生率は爆発的に増加した。それに伴い、今後起こりうる爆発的な人口増加に向けて、これまで手つかずだった首都圏近郊の地下区画開発が進みだした。すでに東京の地下は掘れるだけ掘ってしまったのだから無理もない。

 私は首都直下に暮らす人々に、その新区画への移住を促すプロモーションを仕掛けている。ユニット類は全て最新機であるし、地盤的な問題もない。首都からの遠さは箱専用の移動区画を設けてカバーできるから、暮らす上での不満もないだろう。ただ、地上に新人類が暮らしていることだけが問題だった。

 政府の計画では、地上に駆除剤のマルケス2000を散布して対応するとのことだが、同じことをしても東京の地上では生き残った彼らの一部が暮らしているのだ。きっと全てを殺すことはできない。その事実を隠蔽しながら、私は新たな土地への人々の移住を勧めなければならなかった。

 オフィスから自宅に戻ると、そこには普段通りの幸福な生活が待っていた。職場に復帰した妻はVR出社で仕事をしている。リビングではサージュが我が子をあやしながら夕食を作っていた。私はクイック・ビアが置かれた席に座ってそれを飲みながら、この幸福に浸っていた。

「ご帰宅になるのが分かったので、つい先程冷蔵庫から出しておきました。奥様のミーティングはあと5分程度で終わるようですので、それから夕食にしましょう。」

「ありがとう。静香がまた前のように仕事に戻れてよかったよ。仕事の中身も変わっていないようだしね。」

「ええ、それは良いことです。ただ少しお疲れのようですから、週末は温泉にでも行かれてはいかがでしょうか。箱根の地下水脈から水を引いている施設が最近できたようです。」

「それはいい考えだ。」

そんな話をしているうちに、静香がリビングへとやってきた。表情は少し疲れているが、その中に、出産前のような生き生きとした光のようなものが見て取れる。

「お疲れ様。さっきサージュと話してたんだが、今週末温泉にでも行かないか。」

「いいわね。たまには大きな浴槽に入りたかったし、気分転換にもなるしね。」

サージュが出来上がった料理を運んでくる。家事遂行用のアタッチアームによって彼女の前脚は二股に分かれ、6本脚になっていた。

 サッチーⅡが政府に正式に後押しされるようになってから、レプタイル・ユニバースの製品開発は勢いを増している。双子用にボディを2つ繋げたタイプ・ツインズ。戦闘機用のスタビライザーを搭載し、どのような態勢でも子供に負担を与えないアップデート。使用者が増えれば増える程、収集したデータから彼らの製品はより便利な物へと変わっていった。もはや我々の生活、人生そのものにサッチーⅡは大きく組み込まれている。携帯電話と呼ばれたものが出始めた当時も同じようなものだったのかもしれない。



 翌朝、サージュは貴仁を入れたまま姿を消していた。サージュだけではない。世界中のサッチーⅡが子供を入れたまま姿を消したのだ。静香が珍しく狼狽え、物にあたっている。政府からの連絡もない。私と静香はその日仕事を休んだ。とても何かができる状態ではなかった。

 ネットには何の情報も出ていなかった。カクデンたちはこの混乱を制御しようと試みているが、子供が戻っていない状況では、あらゆる情動的な煽動は無意味だった。

 正午過ぎ、政見放送用のチャンネルが起動した。この状況についてそろそろ何かを言うべき時が来たのだろう。何か意味のあることが言えるとは思えないが。

 しかし、画面に映ったのはトカゲだった。レプタイル・ユニバースのトカゲが画面に大きく映し出されている。

「地球人の皆さん。サッチーⅡとお子さんの喪失に苦しんでいることでしょう。私はレプタイル・ユニバースの代表者です。皆様のお子さんは無事です。今は我々の宇宙船の中にいます。

 我々は今日、皆さんのお子さんを連れて母星へと戻ります。ただ、別にひどい目には合わせません。地球よりも遥かに素晴らしい惑星につれていき、そこで本当に幸福な生活を送ってもらいます。

 こうして皆さんの愛するお子さんを連れ去ったのですから、我々にはその理由を説明する責任があると考えています。この放送はそのためのものです。この内容のアーカイブは後ほどYoutubeにもアップロードしておきます。

 我々は太古の昔から皆さんの様子を観察してきました。あらゆる文明が芽生えては消えていく光景を見てきました。

 我々はかつて度重なる戦争と平和を体験してきた種族です。そして、そのループから皆さんより先に抜け出した種族でもあります。我々は種の繁栄と安寧ある生活のために、社会を再構築してきました。

 その過程で、皆さんとの関わり方も変えました。これまで我々は皆さんに直接的に接触することは避けてきました。ただ、皆さんが1945年に戦争を終えてから、少しずつそのアプローチを変えました。一部の地球人に接触し、我々の技術を少しずつ分け与えました。それにより、この世界と皆さんの暮らしがより良いものになると考えていたからです。

 しかし、皆さんが変わることはありませんでした。宇宙から地球を焼くための兵器を使っているのを見た時、我々は皆さんに失望しました。そして、我々が貸与したサッチーⅡを、忌まわしい兵器に改造しようとしている人間を見つけた時、我々はこの計画を実行することを決定しました。

 我々は人間という種族を嫌いになったりはしていません。むしろ、皆さんをもっと積極的に救うべきであると判断しました。幼少期から我々が高度な倫理観と知識を授けることで、人間も旧時代の思想を棄てて、我々と同じ階層に進めるのではないかと、我々はそう信仰しています。

 お子さんは我々が責任を持って育てます。子供の幸福を真に願うのであれば、我々の決定にいずれは賛同してくださると信じています。我々の方が、皆さんのお子さんをより幸せにできるのです。サッチーⅡを利用されてそれは十分ご理解いただけているかと思います。

 あと5分程で我々は地球圏を脱出します。地球の未来は破滅へと向かっていますが、我々の手によって、皆さん人間の未来は別の世界で繁栄していくことになります。皆さんの残り少ない未来に幸あることを。」

 放送はそこで途切れた。

サポートいただけたらそのお金でバドワイザーを飲みます。というのは冗談で、買いたいけど高くて手が出せていなかった本を買って読みます。