富は神のものだが、努力は人間のものだ (アラビアの諺)

富は神のものだが、努力は人間のものだ (アラビアの諺)

2021.01.19

富は神のものだが、努力は人間のものだ
(アラビアの諺)

富は人間が所有しているわけではない。
全ては神のもの。そもそも人間が所有しているものなど、
何一つとしてない。
だが唯一人間が所有していると言っていいのが努力。

例えあなたが地上を去っても
努力という宝物だけは消えることはない。

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霊能者のレベルを知る基準とは?

2021.01.20

霊能者のレベルを知る一つの基準として人間の死後存続が証明出来るかどうか?という点があります。

故人がまさに生きているというエビデンスが出せるかどうか。

そのエビデンスがどこまで具体性があるのか。

ガチガチの唯物論者にも納得出来るエビデンスなのかどうか?

という点を要チェックしなければなりません。

甘めに採点するわけにはいきません。

そこまで出来る霊能者はまずいてません。

少なくとも僕は見たことがない。

いつか見てみたいものです。

人間の死後存続を証明できないからと言って霊的能力が無いと断じることはありませんが

あまり高いレベルとは言えないと考えています。


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人間の「原罪」とは?自分を「人間」と思い込むのは盗みの罪。

2021.01.21

「私・我・自分・I」といった「自らの意識」を表現する言語は、本来「大霊(神)」の所有であり「大霊」の「自らの意識」を意味する言葉だ。

「一人称」「二人称」「三人称」と言うけれど「一人称」の「一人」も「二人称」の「二人」も「三人称」の「三人」も全て「大霊」のことだ。

「自分」とは「大霊」である。という言葉の意味は、そもそも「自分」という言葉は「大霊」を意味する言葉なので、「大霊」とは「大霊」である。という同語反復と同じ意味だ。

しかし一般的には「私・我・自分・I」などの「自らの意識」を表現する言葉は、個人的な人間としての自分、所謂「自我」の意味で使われる。

「自分」という言葉が本来はイコール「大霊」を意味するものとは考えない。

人間は「大霊」から「自分」という言葉を盗んで使用しているとも言える。

本来は「大霊」を意味する「自分」を、勝手に「人間としての自分」を意味するものとして使用しているのだから盗みの「罪」を犯しているわけである。

このように本来「大霊」の所有する「大霊」に属するものを、本来の主人を見失って「人間(自我)」の所有とアベコベに思い込むことはある種の「大霊」への反逆である。

これを「原罪」と呼ぶのではないか。

ありがとおー。