地縛霊を怖がることは不可能!構造的に不可能なのです!!

地縛霊を怖がることは不可能!構造的に不可能なのです!!

2021.01.07

15年前くらいの時に憑依が深刻化して身も心もしんどかった時があります。

今はもう憑依が深刻化する事はないと思っていますが、
憑依は今もあるのか?というと「ある」と思います。

(僕は「憑依」という言葉をかなり広い意味で使っているところはありますが)

でもあまり気にはしていません。

普通に生活していてもバクテリアやウィルスなど
目には見えないバイ菌について特に気にしないのと同じです。

瞑想をスタートさせたすぐくらいの時やうとうとしている時に

「声にならないような声」をガヤガヤ聞く事もあります。

これを憑依霊と呼ぶべきかどうかは解りませんが、

確かに誰か地縛霊がいてワイワイやっているようにも思います。

声は聞こえるような印象はありますが、その意味内容は

ほとんど意識には入ってきません。

先日は
「トイレはどこだ?」
という声を聞いたように思います。

もしかしたら幽界でトイレを探している地縛霊の声かも知れません。

内容的には全くどうでもよいものばかりという印象です。

オカンの井戸端会議的な会話にはほとんど霊的価値はないのと同じです。

ワイワイガヤガヤやっているけど全く心に入ってこないという感じです。

昨日は地縛霊と思われる二人の中年女性がめっちゃ近い位置で熱心に何か宗教の勧誘をしてきました。

意識が混濁している時なのでボーっとつい勧誘されそうになって焦りました。ビクッとなりました。

カルト宗教の盲信者というのは死んでも盲信をやめようとせず、地上圏に留まり同じようなタイプの人に憑依して盲信の再生産に影響を与えていると「迷える霊との対話」にはありますがその通りだと思います。

盲信者というのは地縛霊になりやすいので注意していただきたいと思います。

(僕のこと???)

普通の人は地縛霊を怖がりますが、地上に生きている地上人である我々自身がある意味地縛霊なのであって怖がる必要はないと思います。

そもそも地縛霊であっても生命を生きているわけです。

生命とは大霊(神)の生命です。

つまり地縛霊も大霊(神)の生命を生きているわけです。

霊的成熟度に差異はあるかもしれませんが
シルバーバーチのような高級霊も
幽界を迷っている地縛霊も地上の地上人も
同じ大霊の生命を生きているのです。

大霊の生命を生きている地縛霊の正体は大霊ですので
これを怖がったり排除したりする「ビビった考え」を持つべきではないと思います。

憑依による苦しみはその人自身のカルマに原因があるのであって
憑依霊はむしろそのために仕事をしてくれているという考えです。

憑依で苦しんでいる人がいても

「基本はそのままつけておけばよい」と思います。

出来ることがあるとすれば祈りによって愛を送ることくらいです。

愛と祈りは大霊の摂理に適った万能薬だと思います。

むしろ地縛霊を怖がったり排除したりするビビった考え、
その心のあり方、心配の念のほうが悪影響があるのではないかと思います。

もし憑依があってもむしろ

「よっしゃ。しっかりついておけ!一緒に大霊を学ぼうやないか!」

ぐらいの気持ちを持っても良いと思います。

こういう気持ちの明るさや元気さ積極性が重要だと考えます。

というより例え地縛霊による影響があったにせよ
それで大霊を学べるのならそれはそれで良いはずですので
怖がったり心配する必要はそもそも全くないと思います。

シルバーバーチも言うように
「心配の念」は蹴散らさないといけません。

世間では地縛霊の祟りがどうのとか、オドロオドロしい祈祷によってお払いしなければならないとかの話がありますが

「地縛霊みたいなことを言ってるんじゃない!」

と思ってしまいます。

そんなことを言っている人自身が地縛霊的です。

地縛霊をビビっていてはいけません。

生命の本源は大霊ですので
迷っている地縛霊も大霊の命を生きています。

地縛霊もその本質は大霊です。

大霊を怖がることは出来ません。

大霊を心配することも出来ません。

なぜなら大霊しか存在していないからです。

大霊しか存在していないのに一体何を
怖がったり心配したりする必要があるのでしょうか?

大霊を怖がったり心配したり、、、
そのようなことはそもそも最初から出来るはずもないこと、
構造的に不可能なことなのです。



他人のカルマは我がカルマ

2021.01.08

霊的な世界では自他の区別がなく、他人がいないわけですが
このことは即ち「全てのカルマは私のカルマである」ということを意味します。

「自分のカルマは自分が刈り取る。」

という霊的真理は即ち

「他人のカルマは自分のカルマでもある」

という意味です。

「他人のカルマ」と表現しましたが

この場合「他人=自分」ですので

「他人のカルマ=自分のカルマ」と同じ意味です。

「自分のカルマは自分が刈り取る。」←の「自分」には一般的に言うところの「他人」も入っているというところが本質的だと思います。

「類魂」という「学び」の要点は
全人類のカルマはまさに自分自身のカルマであることを理解して
霊的一体感を大きく育むところにあるように思います。

その「覚悟」を促し、愛を大きく深めるところにあるように思います。

「どんなに霊性の未熟な者であっても、
犯罪者であろうが殺人者であろうが、
(あなたがその被害者であっても)
その者は他人ではない。
それはまさにあなた(自分)自身なのだ。」と。

一般的に言うところの「他人」は言わば「自分の一種」であって

自分と他人が分離して存在しているのではなく

他人の存在はまさに「自分そのもの」でもあるのです。

ですので他人を憎んだり攻撃したり否定するということは

「他人(=自分)」の本当の「主」である「大霊(神)」を否定するということと同じ意味であって、

実は構造的に不可能なことをしているわけです。

「他人はいない」ということは即ち
「大霊(神)だけがいる」というのと同じ意味です。

存在しているのは「他人」ではなく「大霊(神)」であって
言わば「他人」の中に「他の人・別の人」を認めるのではなく、

「他人」の中に「大霊(神)」を見出すことが大切なのだと思います。



--

寒い冬は水垢離のチャンス。憑依を終わらせる。

2021.01.09

憑依(精神疾患)を終わらせるために寒い冬は水垢離でもやってみたらどうでしょうか。
(あくまでも自己責任でお願いします)

憑依霊は肉体への激痛等のインパクトに反応して外れることがあるということが解っています。
電気刺激と同様に効果があるのが水垢離的な「水」によるインパクトです。

肉体的な負担も大きく軽々にやるべきではないと思いますが、まだ若く体力的にも問題ないのであればやってみる価値はあります。
相当な覚悟はいると思いますが、やったらやったで「何か」は変わることと思います。

というか、こうした「行動」を「本当にやってみよう」と思った時点で相当な克服段階にある証拠だと思います。
ある意味最終局面です。そこまで克服しているのなら必ずしも必要ないかも知れません。

ただ最後のけじめと言いますか、何か自分に対するイベント的な意味を込めてやってみるのもいいかも知れません。
自宅で簡単に出来るのは「水垢離」です。
早朝に浴槽に水を張って気合で水をかぶり続ける。

水垢離のルールは一定時間でもいいし、水をかぶる回数でもいい。浴槽の水が無くなるまでとか自分でルールを決めたらいいと思います。
それを毎日とか、2日に1回、3日に1回とか自分でやるペースを決めて、合計30回とか50回とか100回とかやる回数も自分で決めて下さい。
水垢離の最中はマントラを唱えてもいいし唱えなくてもいいです。
とにかく「ルールを自分で決めて」最後までやり通すという「意志の強さ」が大事なんだと思います。

とは言えこうした寒行はある日突然やるのではなく、出来れば少なくとも3カ月以上~くらいの準備期間が必要だと思います。
夏ぐらいから水垢離をコツコツとやって身体を慣らしていくと言いますか。
最後の仕上げに冬の水垢離という本番を迎えるイメージです。

そして「憑依霊を追い出す」というイメージよりは「弱い自分を克服する」というイメージでやってみるといいと思います。
憑依霊は「弱い自分」を克服することを促すための「仕事」をしてくれているとイメージしてみて下さい。
そんな仕事をしてくれた憑依霊に対する「感謝の祈り」も忘れないようにしてください。

憑依霊を成仏させるのはその人に課せられた霊的役割であると考えることが出来ます。

自分で決めた目標をやり切った時に、「何か」が変わるはずです。
その「何か」こそが人生の宝物になっていくのだと思います。


ありがとおー。