憑依を強引に外す方法。寒い冬はチャンスでもある。
憑依を強引に外す方法。寒い冬はチャンスでもある。
2020.12.27
憑依を強引に外す方法があります。憑依霊は激しい痛みやショックに敏感に反応することが解っています。頭部への打撃による激痛。頭部への電気ショック。は良く効くようです。電気ショックは実際の医療現場でも重症患者への奥の手として使われているようです。
また「冷や水を浴びせる」という表現がありますが、憑依霊は冷水にも反応して外れるようです。
冷水を頭にガンガンぶっかけて憑依を外すというやり方もあるようです。
滝行や水垢離には憑依霊を強引に外すという効果もあるものと思われます。その意味で寒い冬はチャンスでもあります。
ただこうした強引な方法は憑依霊に対する霊的ケアが疎かになりがちでその点は注意するべきだと思います。
また肉体的にも負担が大きすぎるため、あまりおすすめは出来ません。
とは言え僕自身も実は寒行をやったことがあります。一番きつかったのは冬の1月2月にやった寒行です。
「百度行願」という行で半袖素足になって早朝の凍り付くような石畳の上を1時間ほど歩いたものです。
あまりの寒さと冷たさで身体全体で泣きながら歩きました。
悲しくて泣いているのではなくて寒さで身体がびっくりしすぎて「身体が泣く」のです。
今から思うとよくこんなことをやっていたなと思いますが「根性」でやり切りました。
「気合」で冷たさをガンガン踏みつけて行くような感じです。
憑依霊に対し優位に立つには時には「根性」でやり切ることも大事だと思います。
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上手な法話とは?
2020.12.28
落語の起源はお寺などでの人々への法話だったと聞いたことがありますが、
法話が上手なお坊さんの話の特徴は話そのものが「面白い」というところだと思います。
日常の身近な話題を用いながら、話がおもしろ可笑しく進行していきます。
当然聞いている方も話の面白さに引き込まれて、楽しみながらその法話を聞くことが出来ます。
法話が上手なお坊さんは、そんな面白い話を進めながら要所要所で仏法の教えのポイントを話の中で入れていきます。
そうすることでその法話を聞く人は、面白い話を聞きながら楽しみつつ仏教の勉強をすることが出来るわけです。
しかし、一方であまり法話が上手くないお坊さんの法話は、やたら難しい難解な用語を振り回したりして聞いていて眠くなるだけで心に少しも入ってくるものがありません。
つまり下手な法話というのは、その内容が無味乾燥で面白くないことを意味します。
法話というと仏教のイメージが強いですが、
要は霊的真理を伝える為の話と捉えることが出来ると思います。
霊的真理をどのように伝えるか
なるべく身近で日常的な具体例を使いながら
おもしろい話、興味深い話の中に霊的真理のポイントを入れていくと良いと思います。
聞いている人も聞きやすし理解も促進されると思います。
間違っても難しい話の内容をそのまま難しく伝えてはいけないと思います。
法話が下手な人というのは難しい仏教の概念をそのまま難しく伝えてしまったりして、聞いている人は「難しい」という印象しか残らず、ただ眠くなるだけになるのだと思います。
難しい内容を難しく伝えるというのは、例えて言うと数学の公式をそのまま公式だけを伝えているということになると思います。
「公式Aは公式Aです」「公式Bは公式Bです」とただ羅列しているだけで、やたら上から目線で「理解できないのはあなた方がバカだからだ、勉強不足だからだ」と言わんばかりです。
難しい内容をそのまま難しく伝える人は、実は話が下手なのではなく
その難しい内容を本当は理解できていないことを意味します。
内容で理解しているのではなく「言葉という形式」で丸呑みしているものと思われます。
話の内容が理解の難しい霊的な事柄であっても、それを解りやすく噛み砕いて、一般の人にも受け入れやすいように日常の身近な具体例を用いて伝える努力が必要なのだと思います。
それは本当にその霊的真理を理解出来ていないと出来ないことです。
どれだけ解りやすく伝えるかというのはその霊的真理をどれだけ理解出来ているかを知る指標となるように思います。
霊的なことを否定しているような唯物論的な人にも、心に何か引っかかる「種」を残せるような語り方を考える努力が大事なのだと思います。
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鬼手仏心 (きしゅぶっしん 仏教語)
2020.12.29
鬼手仏心
(きしゅぶっしん 仏教語)
鬼のように冷酷な手法に見えるが実は仏のような慈悲心から出ている行動、方便
手術する手は手だけ見ると鬼のような事をしているが実はその人を救うため。
人生の苦境も神が本当の意味でその人を救うおうとして起こすもの。
鬼のように見える人もその正体は神。
その本当の姿を忘れないようにしたい。
ありがとおー。