見出し画像

山縣夫妻と故郷防府|A&A Japan 4

A&Aという会社は、全米でRadio Shackという家電小売店舗を買収した、元々は革製品キット販売で大きくなったTandy社の買付け貿易部門でした。

Tandy社はDIYレザーキットで
戦後始まった会社

A&A社のスタートは、ニューヨーク市で戦後直ぐに日米貿易の窓口として山縣夫妻が起こされた会社でした。日本製品は、まだまだ安かろう悪かろうと言われていた時代に日本の部品メーカーの展示も兼ねたりされていました。いわゆるJETROの先駆け的な存在だったと思います。

今では上場している大手部品メーカー創業者の多く方々は、山縣夫妻と長いお付き合いのある米国市場進出の生き字引ばかりの人達です。

当時、電話帳やエレベーター案内版で「アルファベット順で一番最初に社名が出る」かつ「アジアとアメリカ」を繋ぐという狙いがA&Aという社名の由来でした。

私が入社した頃は、Mr. Yamagata(TY)は、引退されて会長職。社長は奥さんのMrs. Yamagata(EY)でした。奇縁としか思えないのですが、この山縣氏が私の故郷防府のご出身で、戦後満州から引き揚げられニューヨークに渡られる前の数年間を家族で過ごされたのも防府だったと知り、とても驚いた事を今でも鮮明に覚えています。

「毛利邸から佐波神社前を通って云々…」とお話しになられた時に、小学生時代に庭のように遊びまわっていた国衙、多々良地区でしたから最近の風景をお話しすると懐かしそうに思い出されていました。

渡米してアパート探し、運転免許証取得など生活基盤を整える最中に自炊で不便するでしょうからと、台所用品や食器などをご自宅から持って来られて下さったり公私ともども大変にお世話になりました。

美食家のご夫婦は、私が見つけた美味しいけど、店構えはうーむ?と言う小汚い処でも日曜日にランチにお誘いすると気軽にご夫婦でお付き合い下さって可愛がって頂きました。その後、贔屓にされるお店になったと聞くと、ヨッシャーと拳を握るような嬉しさを覚えています。

自宅であるホームパーティーでは、余った料理を独身だった私には食べきれないほど持ち帰りパックして頂いた感謝しても仕切れない。それなのに退社時の方便がビジネス人生のなかで一番悔やまれることになるとはこの頃は夢にも思っていませんでした。再びEYにお会いできるまでには20年近い歳月がかかりました。

言われた事だけこなすうちは仕事しているとはいえないという考えの元、報告にも色々と工夫をしました。例えば、当時出たLotus 1-2-3(今のエクセルに先駆け)を使って製品販売や取引など視覚的に解りやすいものにする。当然、マニュアル読んで新しいビジネスソフトを使いこなす自分の勉強と一石二鳥にもなりました。

始業時間は9時でしたが、よく早朝から出勤したりすることもありました。8時前にはすでに社長室におられるEYの姿がありました。日本出張から戻られた翌日でも同じでした。率先して人が見ていなくても働くトップの姿を見ながら育つ新米時代を過ごせたのは幸せだったと思います。

誰もオフィスに居ない時間に出社した私をみつけるとオフィスのデスクから手招きをされて、最近の仕事や私生活の雑談をする機会などもらえたのも20代半ばの楽しい思い出です。

その頃日本ではバブル絶頂期で、夜の街で食べたり呑んだり、踊ったりの狂乱時代を送る同世代が多かったようです。ネット社会でなかった80年代、そういうニュースはリアルタイムで入ることもなく、ダラスの隣町であるフォートワースの片田舎の街で3年間一度も日本の土を踏むことなく過ごし、東京に戻ったときは浦島太郎気分になったことを覚えています。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?