透影の紅【第3話】
紅莉たちが住む河口市には、教会がない。
十数年前までは神父が管理している小さな教会が街外れにあったのだが、不審火による火災で焼失してしまっていた。以来、この街には神に祈るための場所というのは存在していなかった。
しかし、紅莉の前に今あるのは、見紛うこと無き教会だった。
学校からの帰り道。敢えて家には向かわず、閑静な住宅街の路地を進み、猫除けのペットボトルが乱立された裏路地を抜けて五分ほど歩く。その先にあるのが、この天啓(てんけい)教会だった。
暖かみのあるレンガの壁には蔦が這い登り、深緑色の三角屋根の上には如何にもな十字架がそびえ立つ。焼け落ちる前にあった教会、そのままの姿だった。
入り口にある両開きの木戸を開けようと、紅莉は手を伸ばす。その瞬間、彼女が来たことが分かっていたかのように、ギギギとひとりでに開いた。
「いらっしゃい、紅莉」
扉の向こうに現れたのは、黒の神父服を纏った長身の男。髪も目も鴉のように真っ黒で、闇に溶けてしまいそうな見た目をしている。
服装からすると、彼はこの教会の主のようだった。
「……最近、何か異変は?」
紅莉はこの神父に会いに来たらしい。彼に挨拶を返さず、愛想もない言葉で質問を投げる。
「んー、何も無いよ。ふふふ。この辺の人たちは信心深くないのか、誰も来ないんだ。あぁ、でも。ひとりだけ、お客さんが来たよ」
「マルコに、客……?」
「うん。女性の迷える子羊さ。何やら悩みがあったようだったから、ボクが罪を聞いて癒してあげたよ。そうしたら、とっても喜んでくれたんだ。いやぁ、神のお導きに感謝だねぇ~」
――神なんて信じていない癖に、どの口が言っているんだか。
そんな突っ込みを抑え、紅莉は神父の脇を通り抜けて中へと入った。
マルコと呼ばれた神父は、一度も目すら合わせない彼女の無礼には気にも留めず、ニコニコとした表情を崩さずに扉を閉めた。
「それで? 今日はボクに会いたくなった?」
神父は礼拝堂の祈りを捧げる祭壇に腰掛け、スマートフォンを弄っている紅莉に声を掛けた。紅莉の態度を気にする様子はない。
「んなわけないでしょう? 何で私が、貴方なんかに」
「だってほらぁ、ボクって俗に言うイケメンだろぅ? 紅莉も好きになっちゃったかと」
真っ黒な神父は、端正な顔をニタァと歪ませた。
「残念。私には想い人が居るから」
「妬けるねぇ。ボク、嫉妬しちゃいそうだよ」
「そんなことより、これ見て」
紅莉は操作していたスマホをマルコに差し出した。彼は彼女に近寄って、スマホの画面を覗き込む。
「なんだい? ……あぁ、あの事件か」
顎に手を当てながら、ふむふむと納得したような顔になった。彼は紅莉がここへ来た理由に察しがついたらしい。
その画面には、紅莉が教室で見ていたニュースの記事が表示されていた。
――占い師、連続殺人事件。
この河口市近辺で起こった、占い師を狙った殺人事件である。
「いいから、マルコもちゃんと協力してよね」
「はいはい。御主人様の仰せの通りに」
黒の神父は、これから始まるであろう更なる事件の予感に、悪魔のような恐ろしい笑みを浮かべた。
◇
学校での授業を終えた悠真は、夕焼け色に染まるアスファルトの上を歩いていた。
ワイヤレスイヤホンで流行りのアップテンポな曲を聞いているにもかかわらず、彼の足取りは重い。
こうして独りで下校するのは、本当に久々だった。中学校時代は所属していたサッカー部の連中と帰るのが常だったし、高校に進学してからは交際をしている星奈と帰るのが当たり前だったからだ。
目の前の交差点の信号が赤になり、彼は足を止めた。
同時に曲が切り替わった。今月の売れ筋ランキング一位を獲った、失恋がテーマの切ないラブソングだ。せっかく音楽で気分を誤魔化していたのに、女性の声で「会いたい」とのセリフを聞くとモヤモヤする。会いたいのはコッチの方なのに。
いつもなら気にもならない待ち時間が、今日はやけに長く感じる。思わず溜め息を吐いてしまった。
ポケットからスマホを取り出し、別の明るい曲に切り替える。そして高校生なら誰しもが持っている、連絡交換用のアプリを起動した。
「星奈、からは何も着ていないか……」
二度目の溜め息は、さっきよりも湿度が高かった。
音沙汰の無い個人チャットに比べて、クラスのグループチャットは賑やかだ。暇を持て余した男子たちが、夜にやる予定のゲームについて会話している。今の悠真はそこに参加する気分にはなれなかった。
「ようやく、恋人になれたと思ったんだけどなぁ」
彼女と付き合えたのは、自分でも運が良かったと思う。順調に仲を深めていたはずだった。それなのに、先週あたりからどうにも星奈の様子がおかしい。
付き合いたての頃は、メッセージや朝と晩の通話も欠かさなかった。
それが今では、「うん」とか「はい」またはスタンプのみ。素っ気ない返事しかこないし、通話もさせてもらえない。
もしや嫌われたのだろうか。そういえば今日、服や香水を買ったと喜んでいたっけ。もしかしたら別の男ができたんじゃ……。
「不安だ。紅莉は心配ないよって言ってくれたけど」
紅莉とはあまり学校では話さないが、こまめに連絡を取り合っている間柄だ。
彼女はいつも親身だし、星奈と同じ女性の目線で意見をくれるから、とても有り難い。
そうだ、紅莉に電話をしてみようか。
「……って、アイツは放課後に用事があるって言ってたよな。ははは。なんだか最近、星奈よりも紅莉との会話が多いかもな」
少し自虐的になっている間に、歩行者用の信号が青になっていた。
「おっと、早く渡らなくちゃ」
その青信号もピカピカと点滅し始めている。
悠真が立っている場所は静かな住宅街。今日は歩行者が居なかったせいで、信号が変わったことに気付けなかった。
「まだ、間に合う……!」
車も見る限りいないようだし、ここは渡ってしまおう。そう判断した悠真は、小走りで横断歩道を渡っていく。
「ふぅ。……ん? なんだ、あれ?」
交差点を渡った先。悠真の家へ向かう道の電信柱の陰に、先程は見えなかった人影があった。
目を凝らしてみれば、それはワンピースを着た黒い長髪の女性のようである。
服のチョイスからして、二十代ぐらいだろうか。可愛らしい兎の刺繍がされたトートバッグを肩に提げ、左手には黒い図鑑のようなものを持っていた。
ただ、様子がおかしい。彼女はピクリとも動かず、その場で立ち尽くしている。
「俺を……見てる……?」
辺りを見回してみても、他に人は居ない。
髪の毛で隠れてしまっているので、表情は分からない。だが顔そのものは、間違いなく悠真の方を真っ直ぐ向いている。
悠真の頭の中で警鐘が鳴り響く。幽霊や妖怪の類は信じていない悠真であったが、さすがに不審人物が目の前に現れると急に怖くなった。
「どうしよう」
こんな時の対処法なんて知るわけがない。
警察? いや、別に見られているだけで何もされていないし、通報するにはまだ早い。もしかしたら、誰かとそこで待ち合わせをしているだけかもしれない。
悠真は自分に都合の良い理由を脳裏に並べながら、自身の足をジリジリと少しずつ後ろへ下がらせた。
「――来る!?」
悠真が逃げようとしたのがバレた。彼が逃げようとするよりも速く、あの黒髪の女は電信柱からこちらへと猛スピードで駆けてくる。
「っ……!」
悠真は来た道を引き返し、駆け始める。
振り向きざま、チラと女の顔が見えた気がした。
その瞬間、悠真の全身に鳥肌が立った。遠くでも分かってしまった。生まれて初めて見た。あれは――本物の殺意が篭もった瞳だ。
どうして自分が見ず知らずの人間に、そんな目を向けられているのか。その理由はまったく分からない。誰かの恨みを買った覚えなんて無い。だが、今すぐ逃げないとまずいのは分かる。
何でもいいから、とにかくアイツから離れないと。
包丁やナイフは持ってはいなかったと思う。そう思いたい。だが、あの女自体が危険なのは間違いない。
「た、助けて……!」
振り向く余裕はないが、すぐ後ろに居る気がする。
全力疾走で息が上がってきた。サッカーで鍛えた身体はまだ行けると言っている。このまま、人の居る場所まで、どうにか逃げきれば――。
「な、んで……?」
金縛りのように、身体がピクりとも動かなくなった。最初は足が攣ったのかとも思ったのだが、手や首も動かない。心臓だけが煩いくらいにバクバクと高鳴っている。
「影が伸びた――!?」
目だけを動かして足元を見ると、自分の影が女の方に伸びているのが見えた。
「な、なんなんだよお前は……!」
もはや何が起きているのか分からず、悠真の頭の中は真っ白になっていた。
「ねぇ……貴方、本……持ってない?」
「うわあっ」
目の前までやってきた。自分とそう変わらない身長の女だ。
ソイツは腰を折り、敢えて悠真の顔を下から覗きながら「本はないか」と聞いてきた。
一体なにを食べたらそうなるのか。女の息は酷く生臭い。顔を背けたくとも、動くことができない。
質問に答えない悠真に苛立ったのだろう。女は更に語気を強めて同じ質問を繰り返した。
「ねぇ、本……持ってるでしょぉ?」
「ほ、本だって……? な、何のだよ!」
声が裏返ってしまった。それでも悠真は、勇気を振り絞って質問に質問を返す。
そもそも本と言われたって、なんのことか分からないのだから答えようがない。
気付けば悠真はボロボロと涙を流していた。汗と涙で顔がグチャグチャだ。
「あの人の本よぉ……返してよぉ……」
「し、知らない! 本なんて持ってない!」
「無い……持ってない?」
「本当だよ! だから……助けて……」
悠真の命乞いを聞いて、女はしばらく無言になった。
何かを思案しているのだろうか。どうでもいいから、早く解放して欲しい。悠真はこの時間が永遠のように長く感じた。
どれだけの時間が経っただろう。女は血のように赤い唇でニィ、と弧を描いた。
そして肩のトートバッグから赤黒い鋏を出すと、ジョキジョキと鳴らしながら、悠真の頬をそっと刃の背で撫でまわし始めた。
「――嘘だったら殺す」
悠真の精神はそこで限界を迎え、意識を手放した。
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