パクリじゃないんですけれど!

3年前か2年前か(わたしが見栄を張りたいだけであって、もしかしたら1年前なのかもしれない)から、ずっと思っていることがあります。

追記:やっぱり2年前くらいには思っていた気がします

塾講師のアルバイトをしていたとき、まあまあの数の国語の文章読解の問題文を読む必要に迫られました
そのときに、おお、これ私も思っていたんですよ!と作者を見ると、そこには鷲田清一さんの名前がほぼ毎回あるんです…

これ、先に私が文章にして出版していたら、鷲田清一さんの方にパクリ疑惑が出ていたんじゃあないの!?

だいたい、人間の発見することとか気づくことは同じなんですよ、とわたしはずっと思っています
哲学の授業を受けているときも、ねえこれ私が思っていたんですけど!わたしが先に生まれて先に説いていたら、「ブッダ 主張はパクリか」みたいな記事タイトルがあってもおかしくなかったということ?

ということは、教科書に載っている人の前にも、同じことを説いた無名の人がいたはず
哲学総ざらい本なんかを読んでいると「〇〇さんの主張=こういうもの」とまとめられているけれど、正確には「この主張をした人のうち、有名になった(または歴史に名が残った)のはこの人」なのでしょうね

なんでこの文章を書いたかというと、今日たまたま昨日分の「今日のダーリン」を読んだのですが、ちょうど昨日(か一昨日に)わたしが書いた主張と同じことを言っていて、ねえ私が「ほぼ日」を読んで感想文を書いたみたいじゃん!わたしは、わたしが思ったから書いたんだけど!(こういう「じぶんのもの」が「脅かされた」と感じてしまうのは未熟な証拠、わたしは「じぶんのもの」があると勘違いしているため)
と頭を掻いたからです。

でもそうなるのって、わたしが糸井重里さんより名前が知られていないとか、糸井重里さんのような波乗りの到達地点にいないとか、糸井重里さんより生まれたのが遅いとか、糸井重里さんのような人にじわり伝わる文章を書こうとしていないとか、そういういろんなことの集積の結果であり、私のやってきたことやご縁や生まれたタイミングが糸井重里さんとは違った、というだけなんですね(これを嘆くのは誤りであり、たんに事実として違いがあるだけである)

きっと、この主張をした哲学者!として教科書に載っている人と、同じ主張を友達には話していたけれど誰にも知られていない人の違いもそんな感じで、どちらが良い!惜しい!すごい!ドンマイ!みたいな話の土俵にはないことなんですけれども…
単にそういうこと、が起こった、というだけなんですよね
それが面白いともべつに思わないので、やはり人は淡々と目の前の生活をするであったり、しゃがむために膝を曲げ伸ばしするであったり、そういうことのために人は生まれてきたとしか思えませんね

⚠️私は鷲田清一さんのことも糸井重里さん(ほぼ日)のこともどういう人で何をやってるかを知らないので、なんか日本にいる他の人くらいの認識です、なんか変なことを書いていたらそれは無知によるものであり、申し訳なさなそうにはにかみます


うーん、書いていて思ったのですが、自分の気づきを「大層なこと」だと捉えているから、「これは私の主張!」って両手で囲いたくなるんでしょうか?
私の別に重要視していないことを説いている人を見ても別になんとも思わない、ということは、わたしは、その人の説いていることは「大事なこと」だと思っていないということ(逆か?)
そこには確かに「自分の考えていること、大好き!」があり、「これは私だけの考えかと思っていたんだけれど、鷲田清一さんが先に言ってたかー、悔しい…先越された…わたしが今言ったらパクリになるじゃん…」がある

先越されててもいいのでは?それこそが人にgiveするということなのでは?ブッダのことを全く知らない人に対して、わたしの考えを話せばそれは「法施(これ仏教にしか使わない言葉?後で調べる)」である
大事なのは、先に誰かが言ったことだからパクリになるか、ではない!それはわたしが非難されたくない「自分かわいさ」からくる恐れであり、誤りですね

自分のできる範囲で、わたしはこう思います、を!
別にわざわざ話さなくていい(機という気の流れを無視してはいけない)、こう思います!の背中をしていれば500点満点です
それが、ちいさい私にできる、人への貢献なんでしょうかね

だから、「自分の考え大好き!」その感情は間違ってはいない、ただ少し修正を加えるべきであり、正しくは「『この考え』大好き!」、つまり所有の気持ちを捨てるべきなのでは!?

『気づき』は誰のものでもなく(だから哲学総ざらい本の主張=人、の書き方には違和感が出てくる)、その『気づき』に取り込まれたうちの1人がわたしである、という認識がかなり正しいのでは?

つまり、鷲田清一さんや糸井重里さんに先越された!の感情も認識の誤りがあり、『気づき』をこんなふうに伝えるやり方があるのか、と、成績の良い同僚の営業トークを盗み見るような気持ちでいればよいのでは!

大事なのは「わたしの考えであること」ではなく、「気づきが広まること」であるため、急いでわたしが主張をする必要はない、焦りは最も遠回り!
わたしはまだ未熟なので身の修養をしていればよい
ここだ!が来れば発進するし、その前に死んでしまっても深く嘆く必要などなく(もとより動物)、「おい〜!☝️💦」と軽くツッこみながら死ねばよい、大事なのは毎日の修養であり、毎日の修養ができないことこそ深い後悔に繋がるよ

自身は『気づき』の傀儡であり、『すてきなこと』の傀儡であり、『こう思う』の傀儡でしかないんですね

今日のところは満足

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