神でも災害でもなくなった怪獣たち「ゴジラvsコング」

このnoteには「ゴジラvsコング」のネタバレが含まれます。

また、結論から言うとこのnoteは「ゴジラオタクが新作ゴジラを見たら思ってたのと違って駄々をこねている」というものであるため、否定意見が主軸である。それを頭に入れて読み進めて貰いたい。













私が怪獣映画に求めているものは何か。それは破壊だ。

「ゴジラ」では国会議事堂が、「モスラ」では東京タワーが無惨に破壊された。「シン・ゴジラ」の内閣総辞職ビームで東京は文字通り火の海と化し、「84ゴジラ」の放射熱線は居並ぶ自衛隊を端から焼き払った。

人類の抵抗や都合など一切考慮しない破壊は、エンタメとして求められていた。派手に崩れるあの建物、真っ赤に染まるあの景色、巻き込まれていたかもしれない自分。怪獣映画とは、そういった非日常とある種の爽快感を併せ持ったジャンルだ。

そういったジャンルであるからには、舞台装置としての怪獣たちは「暴れて破壊を行うもの」だ。大半の怪獣たちは確かに生き物であり、そこには戦う理由、破壊の理由があった。また、主に昭和のヒーロー路線では守ること、慈しむことを知っていた。しかしその考えや判断に人間は介在しない。

あなたは虫を踏まないように意識して歩道を歩くだろうか。蜘蛛の巣を壊さないように森を進むだろうか。人間には人間の世界があり、同じように怪獣には怪獣の世界がある。

原子力発電所に惹かれ、同族の気配に呼び起こされ、滅びゆく自然から。目覚めた怪獣は人間の理解が及ばない破壊をもたらす。人智を超えた力によって行われる破壊を人は「災害」と呼ぶ。

地震、津波、噴火、洪水、ありとあらゆる破壊をもたらす災害は、それそのものが神聖視されてきた。人の及ばぬ力の一端として、そこには人間の理解の埒外への畏れと敬いが存在した。相互理解はあり得ず、意思疎通も出来ない存在である「」に対して人間は余りに無力だ。

破壊をもたらす巨大生物という本質は変わっていないが、怪獣ではなく人類の守護神として扱われるものもいる。護国三聖獣やガメラがそうだ。人の味方として描かれる彼らでも、人間個人への執着や感情などは無い。大いなる力を持つ「怪獣」からは個人など認知されないのだ。

理解の及ばぬ大いなる力による破壊、人類など歯牙にもかけぬ暴力、言葉の届かない怪獣たちに込められたメッセージ。災害や神の具現化、それが私の求める怪獣映画だ。

人類を守りながらも街を壊していくガメラに、怪獣を倒すために生み出されたが暴走したメカゴジラに、キングギドラを倒すために副次的な破壊をもたらすゴジラに、たまらなく興奮するのだ。

(もちろんキングコングやモスラ2、ガメラ3など個人と怪獣の交流を描いた作品や、小美人を通して怪獣と意思疎通をする作品もあるが、長くなりすぎるので割愛)


さて、本題の「ゴジラvsコング」だ。モンスターバース4作目として公開されたこの作品は「怪獣映画」ではなかった。確かにゴジラとコングという二大怪獣は戦う。海の上でも香港でも、人類などお構いなしに破壊をばら撒く。だが、そこには明確な意思があった。

コングは手話を用いてジアと意思疎通し、彼女を守り助け、指を合わせてのE.T.のような交流までする。彼には故郷へ戻り家族と会いたいという目的が存在し、そのために人類と歩みを共にした。

ゴジラは人間とのコンタクトこそ無かったが、彼の行動の理由は人類に理解できた。メカゴジラの破壊を目的とした襲撃、コングへの敵対意識、そしてラストシーン。そこからは本能としての破壊ではなく、一つの生物としての考えが読み取れた。

ゴジラも、コングも、人間の理解の範疇にあったのだ。

理解の範囲にある彼ら怪獣は、もはや人類の畏れた「災害」でも「神」でもなく、「危険な巨大生物」でしかなかった。

派手な怪獣プロレスや倒壊する街並みなど、表面上は怪獣映画の文脈ををなぞっているが、その実は「パシフィック・リム」のような人類主体の物語であった。もちろんパシフィック・リムが名作であることは疑いようがないが、怪獣映画として私が望んでいたものでは無かった。

また、怪獣側だけでなく、人類側のキャラクターの扱い方の勿体なさも目についた。芹沢博士の息子である芹沢蓮がメカゴジラを駆り、エマ・ラッセルの娘のマディソン・ラッセルはゴジラが暴れる理由を追い求めた。

彼ら個人の考えや、親の考えとの相違点などを劇中に盛り込み、人類の怪獣に対する考え方を広げられなかっただろうか。人間ドラマは不要だとバッサリ切り捨てるのではなく、芹沢博士の息子が何故ゴジラを排除しようとするのか。ゴジラに助けられた少女が、どういう考えのもと活動しているのかをより強烈に描けなかったのかと残念でならない。

そしてコングの故郷だ。人類未到の雄大な大地、その映像美は素晴らしかった。特にコングが自在に駆け、重力が逆転する部分を飛び越えるシーンはその魅せ方に驚かされた。しかし説明のないまま進む地下世界は、怪獣ではなくインディ・ジョーンズのそれである。コングの手型がついた扉、斧を嵌め込む穴、溢れるエネルギー、あまりにご都合主義ではないだろうか。

とはいえご都合主義を否定するつもりはない。映画が物語であるならば、そこには話の流れがあって然るべきだ。ただ、その都合は誰の都合かと言えば、人間たちの都合であった。怪獣が主体ではなく人間が主体に物語が進む印象が強烈に残ったのだ。


ここまで批判、というより文句を書き連ねてきたが当然見どころもたくさんある。メカゴジラの背鰭が一つずつ順に起動するシーンはワクワクしたし、彼が格闘戦で肘のブースターを使って加速するなど、生物ではなくメカとしての動きを存分に見ることが出来た。ゴジラとコングの戦いでは、腕のリーチの分コング優勢に進むシーンがあるが、コングのフォルム的にその戦い方は人間のものに近い。それに対してゴジラは噛み付いたまま投げ飛ばす、尻尾を使い弾き飛ばす、熱線でビルごと焼き払うなど多彩な戦い方を見せてくれる。コングに近しい視点で進む今作では、その人型の戦い方と対比したゴジラの魅せ方は素晴らしい。

そして何より香港のビル群だ。ゴジラとコングの戦いに巻き込まれて全てが崩壊していく街並み、輝かしいネオンも二人が通った後には何も残らない。そんな近代の大都市から一変して、メカゴジラが現れるのは雑多で、ある意味古臭い街並みであった。彼らの前では人間の貧富や歴史など、何の価値もないことを見せつけられるシーンは素晴らしかった。


総括として

今作は良くも悪くも人が主役の映画であった。コングを怪獣ではなく巨大生物として捉え、それに寄り添う人々を描いたものだ。そこには神としての怪獣も、災害としての怪獣も存在しなかった。

ゴジラを文字通り神だとする監督の作った前作や、ある種の巨大生物対策シミュレーションである「シン・ゴジラ」を期待した私の理想とはかけ離れていたのだ。

しかし「ゴジラ」の魅力はその懐の深さにもある。災害であり、反戦思想であり、怨霊であり、守護神であるゴジラが今作では生物として描かれていた。それが「not for me」なだけだったのである。


ただただこれを言語化するためだけにこのnoteを書いたのだ。大好きな「ゴジラ」をただつまらなかったで終わらせたくないオタクの自分語りの儀式を読んでくれてありがとう。

次回作ではゴジラが全てを滅ぼすことを願って。

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