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シンデレラの伝言

風の強い、果ての街。子どもの頃から何度も何度も行った街。そこまでの道中、海に面した大きな岩がある。草の生えた小高い山の上にちょこんと乗せられたような、おかしな形の岩。「むかしむかし、アイヌの人々がまだたくさん住んでいた頃、戦争があって男の人は海の向こうに行ってしまった。それを悲しんだ女の人が、山に登って泣きながら、男の人の帰りをずっと待ち続けた。何年も何年も待ち続けて、とうとう女の人は岩になってしまった。だからあの岩は海の方を向いて、地面に顔を伏せて泣いている人の形をしているんだよ。」父の話を信じた弟は、その岩の前を通るたび「あれって人なんだよね?」と楽しそうに指差した。
      
※あくまで本編と区別するために、引用形式を使用しています。他作品から引用した文ではありません。


1.透明な空気

今、ちょうど今、ここに女の子がひとりいます。名前はマウ。

マウは、セシケという小さな街にひとりで住んでいます。この街の真ん中には、茶色い角砂糖の形をしたレンガ造りの建物があります。マウはそこで、ありとあらゆるモノをつなげるお仕事をしています。折れた木の枝と枝、汚水が今にも漏れ出てきそうなくらいひび割れた下水管、インターネット回線、壊れかけの(山奥に住むお婆さんしか使っていない)吊り橋の綱と板、ふてぶてしい子どものお誕生日パーティーの輪っか飾り、ハンバーグのパン粉とひき肉など。こんなに色々なものをつなげるために、マウは朝から夕方までセシケの街中を歩き回っています。

そんなマウが一番苦手なのは、人と人をつなげる仕事でした。家族のケンカの仲裁、老いた方々の代わりにお医者さんと会話する、我が子の気持ちが見えず途方に暮れる親へのねぎらい、働く場所がなくて困っている人に仕事を紹介する…他にもたくさんの人と人をつなぎ直していかなければなりません。経験したことを次に活かせるとも限らず、いつも未知との遭遇の連続で、マウは自信が持てないでいます。

モノとモノ同士なら、多少苦労しても自分の手先や腕の力を使っていれば、いつかはつながります。でも人と人は違います。話は飛ぶし記憶はすり替わって当然、嘘をつくのも当たり前。人の話は聞かずにすぐにしゃべりたがる。それでいて本音を隠そうとして、ほんとうのこととは真逆を言ったり、自分自身すら本音をわかっていなかったりする。人と人とのつなぎ目は一体どこにあるのだろう。マウはいつも迷いました。

それにマウ自身が抱えている「全力体質」も、さらにこの仕事を難しくしました。マウはいつもじっくりと相手の話を聞こうとしましたが、どうも咀嚼に時間がかかります。相手にわかりやすく話そうとするあまり、話がまどろっこしくなったり、言葉に詰まったりもします。そして何よりも、相手の気持ちを全力で受け取ってしまいがちでした。周りに漂うイライラやモヤモヤを、ただでさえも敏感にわかってしまうマウ。その怒りの矛先が自分に向けられた時、心のスイッチのON/OFFを切り替えるのは、並大抵のことではありませんでした。押し寄せる暗い色の波が、いつまでも残りじわじわと染みている気がしました。自分を守りたいのに。

何かが足りない。優しさなのか、心の強さなのか、臨機応変さなのか…マウは自分が、この仕事をするための決定的な何かに欠けている気がしてなりませんでした。まるで、同業者と横一列になって「せーの」で一緒の方向に歩き出したのに、「やっぱやーめた!」とぷいっと逆を向いてがむしゃらに走り出す、そんな感じがしました。


2.薄桃色は頬の色

マウには、大好きな彼がいます。遠い遠い遥か向こうの大都会で、毎日忙しく働く彼は、少し変わった仕事をしています。たくさんの人でぎゅうぎゅうに溢れ、よどんでしまった空気が彼にははっきりと見えているのです。それを、澄み切った綺麗な空気に変えてしまう不思議な能力を、彼は持っています。

彼が空気を綺麗にした場所には、時々ですが木が生えることがあります。彼が去った後も、その木はみんなの鬱積を洗い、清めてくれました。だから人々は彼を「ありがたい人だ」「特別な人だ」と尊敬し、いつも歓迎しました。

彼のような不思議な力を持つ人は他にもいますが、皆それぞれ能力に違いがあって、どれも人間が暮らしていくために欠かせない物です。彼の代わりになる人なんていませんいつもどこでも、彼はたくさんの人から助けを求められ、力になろうと走り続けていました。


マウの元へ、彼からは毎日毎晩のようにメッセージが届きます。「おはよう。今日は大きな仕事頑張ります」と言われれば、「おはよう。私も頑張ります。あんまり無理しないでね」とマウは答えます。「お疲れさま」と言われれば「お疲れさま。アプトくんは今日、どんな1日でしたか?」とマウは尋ねます。

「いつもありがとう。愛してるよ」こんな甘い言葉、滅多に言わないのに、今日のアプトくんは一体どうしたんだろう?驚きと喜びで満たされながらも、何て答えたら良いのだろうかと、マウは“手の中の窓”を握ったまま考え込んでしまいます。

「遠く離れていても、愛は伝わるものですね。いつもありがとう」やっと打ち込んで送ったメッセージ、彼はどんな顔して読んでいるのかな。こんな時マウは、頭のてっぺんから足の爪先、そして心の奥の奥まで彼でいっぱいになります。食べたい物も、温かい布団も、終わりのない仕事のことも、やがてやってくる未来のことも全てを忘れ、彼と自分の間にある何千キロもの距離さえも消え去り、マウは彼と真っ直ぐに向き合うのでした。

彼のいる大都会への道のりは、三日三晩寝ないで働き続けるよりも疲れてしまうと、セシケの人々は噂しています。たどり着いたとしてもそれが最後、もう二度と戻って来れないのだと。

でもマウは、いつか必ず、彼のところへ行ってみたいと思っています。「いつでも僕のところに戻っておいで」マウは彼の、飾り気のない真っ直ぐな言葉が大好きなのでした。


3.群青稜線八番地

ある日、彼がセシケに来るという噂が流れました。彼から何も聞いていなかったマウは、半信半疑で休憩時間に急いで庭園まで行ってみました。するとそこには人だかりができていて、人々の視線の先には2人の若い男性がちらちらと見えています。マウは少し離れたところから、小さな体で目一杯背伸びしましたが、彼の姿はどこにも見当たりません。

ふと、南の方向を見てみると、かなり遠くに豆つぶくらいに見える人がいました。細身の後ろ姿にぱっと目を引く銀髪。マウにはそれが、帰って行く彼だとすぐにわかりました。確かに見えているけれど、この距離では全速力で走っても絶対に追いつきません。マウは彼に会うのを諦めて、その姿がゆるやかな右カーブの橋の向こうに消えるまで、静かに見守りました。

「アプトくんはもう戻って来ないのですか」いつも人見知りなマウが思い切って、知らないおじいさんに声をかけました。「あぁ、アプトならもう戻って来ないよ。お姉さん、アプトに会いたかったのかい?」マウがうなづくと、おじいさんは「それじゃあシカリとラタのところへ行ってごらん」と人混みを指差して言いました。彼に会いたくて頭がいっぱいだったマウは、おじいさんの言う通りシカリとラタのもとへ向かいました。

マウは、2人を取り囲む人だかりが少なくなるのを待っていましたが、その気配は一向にありません。このままじゃ仕事に遅れてしまう…焦る気持ちに追い立てられ、思い切って人混みを分け入り前進しました。

見物の人々に囲まれて、2人はもう自分たちの役目を終え、後片付けを始めていました。その場所は昨日まで、持ち主のいない荒れ果てた庭園でしたが、彼らの不思議な力によって今は色とりどりの花々が咲き、蝶々が飛んでいる花畑に姿を変えています。

「あ…あの…アプトくんは?」マウは緊張しながら尋ねます。「アプトなら、次の仕事が急に入ったから、ついさっき出発したよ」「そう…」「あいつはせかせか落ち着かないからなぁ」「移動の途中で、池にはまらなきゃいいけど」「それ、もう軽く2回はやってるだろ」「いや、3回。ところでお姉さん、名前何ていうの?」「マウ」

マウが名乗ると、シカリとラタは少し驚いた顔で目を見合わせました。そしてすぐにラタが、大きなスーツケースの中から何やら引っ張り出そうとします。「マウさん、これ、アプトから預かってたんだ」「え?」「俺ら、まだ何個か持ってるから。もらってやってよ」それは、手のひらにすっぽり収まる大きさの透明な球体で、球体の下には紺色のベルベット地の置き台が付いています。球体の中には、見たことのない鮮やかな花が一輪咲いています。

「きれい…」「ま、あいつの趣味だからそんな小洒落たもん俺はよくわかんねぇけど」「…これ、大事なものだよね。アプトくんの大事な物、もらっていいの?」「マウさんだからもらっていいんだよ」「私だから?」「うん。アプトのことを大事に想ってくれているから。マウさんがもらってくれたら、あいつも遠くまで働きに行った甲斐があったと思うよ」「これは、どこかに行った時の物なのね」「そう。8時間は飛んだとか行ってたぜ」

人間とは勝手なものです。マウは自分なんかがもらって良いのかと少し遠慮しましたが、同時に自分がもらうべきだとも思いました。自分ほど彼のことを想い続けている人はいない、自分ほど彼を愛している人はいないと、マウはときどき前が見えなくなるくらいに、固く信じてしまうのです。

その日から、彼からもらったガラス玉がマウの宝物になりました。毎朝ガラス玉に向かって行ってきますを言い、いつもカバンの中に入れて持ち歩きました。何か嫌なことがあって、モヤモヤがどうしても消えない時には、誰もいない所で取り出して眺め、心が静まるのを待ちました。そして月明かりが綺麗な夜には、ガラス玉を窓辺に置いて空を仰ぎつつ、その小さな丸い世界にかすかに映り込む星をじっと見つめました。

ガラス玉の中では、雪の結晶のような白い粒が四方八方に舞い、その動きに呼応するかのように、花がゆらゆらと漂っています。赤でも紫でもない濃い色の花を見つめ、マウは彼がこれまで見てきた景色に想い巡らせました。「アプトくんがいる世界はどんな世界なのだろう」彼をもっと知りたいという気持ちが溢れ、マウも気づかないほどに部屋の中を満たします。それはまるで、小さな公園に不釣り合いな噴水の水が、吹き出しては沈み、吹き出しては沈みを繰り返すようでした。


4.鉛の声に囲まれて

「あなたは成長が遅いの。もう何回同じことをやればできるようになるのかしら?私はあなたが『お願いします』って頼みに来るもんだと思ってたから、今まで何も口出ししなかったの。今日のことはあなたの失敗です。全部あなたの責任ですからね」上司の藤田が言いました。外は真っ暗で街灯だけが煌々と光り、ゴーンゴーンと鐘の音が9回鳴りました。

この夜に限ったことではありません。もうかれこれ半年くらい、マウは藤田にほとんど毎日、日が暮れるまで果てしなく、いびられ続けているのです。藤田が幅を利かせるこの小さな小さな世界で、マウは空気でした。朝から夕方まで、この世界に存在しないかのように扱われたのです。でもなぜか、ずーっと監視されている気もしました。斜め向かいの席から、マウの一挙手一投足をひっきりなしにぺろぺろ舐め回されている感じがするのです。

何か失敗をすれば「どうしてそんなミスをしたのか」と聞いてきて、正直に答えると「じゃあどうしてそんなことをしたのか」今度はそう聞いてきて、それにも答えると「それは?なんで?」と、終わりの来ない質問攻撃。それはまるで、てっぺんの見えない真っ暗で寒い螺旋階段を、息を切らしぜえぜえ言いながら、意味もなくただひたすらに登らされているようなものでした。

マウは、なるべく藤田と関わらないようにしました。でも、どうしても話さなければいけない時は必ずやってきます。そんな時、藤田はマウが自分の思い通りに動くようになるまで、ひたすら同じことを喋り続けるのでした。マウが藤田の考える“正しい答え”を見つけるまで、藤田に無駄遣いされた可哀想な言葉たちが、目の前を通り過ぎて行きます。まさに無限ループです。

それほどまでにマウを可愛がってくれる藤田は、お気に入りの鶴田とよくヒソヒソ話をしています。マウはそれが、自分の悪口だとちゃんと気づいていました。目の前の透明人間に当てつけるかのように、これ見よがしに意地汚い目配せをし、クスクスと気持ちの悪い音を立てる2人を、マウはなんて可哀想な奴らだろうと思いました。でもそんな時、心よりも体は敏感です。首の後ろはジンジンと音が聞こえそうなほどに脈打ち、重い石に引っ張られているような痛みを感じました。この職場に入るまでは味わったことのない、ただただじっとして通り過ぎるのを待つしかない痛みです。

辛く苦しい日々でしたが、マウは「絶対にこの人たちは間違っている」とわかっていたので、かろうじて職場に通っていられました。自分は必ずこの人たちより幸せになれると信じていましたし、何なら今のこの状況も、自分の方が幸せだろうとわかっていたのです。でも、これから先もずっと、藤田にいびられるかと思うと、胃がキリキリと鳴いているのもほんとうでした。


「小田さんが置いて行った粘土作りのマニュアル読ませてもらいましたが、何がなんだかよくわからなくって。小田さんの割合通りに原土3:水1.5:水ガラス0.5で作ってみましたが全然固まらないんですよ。元々は原土3:水1:水ガラス1と書いてたのを上からバツ印して原土2:水2.5:水ガラス0.5って書き直してて、それをさらに原土3:水1.5:水ガラス0.5に訂正してるんですよね。粘土を作るのに、土より水が多くなるなんておかしいじゃないですか。小田さん、よくこんな状態でこの仕事を1人でやってたなって。あと、真空土練機って書いてる横に謎に6って書いてて、この6は何なの?何の6なのって。もう、このマニュアル使わなくてもいいですか?これじゃ全くわかりません」太田さんが課長に、息をつく間もなく言いつけているのが聞こえてきました。

鉄の釘やら、途中で書くのをやめた紙くずやら、可愛いぬいぐるみやら、色んな物がごちゃ混ぜにギッチギチに敷き詰められたような箱。太田さんのそんな心の中身が、マウに直接ぶつけられることはありません。それはいつだって、飄々と我が道を行く課長に向けられます。

太田さんの意見はいつも正しいのでしょう。でもマウは、彼女が話す時に周りに漂ってしまう何とも言えない空気に、いやーな物を感じ取っていました。「ほらまた始まったよ…」という乾き切った冷ややかな空気です。どんなに正しい意見だったとしても、周りにアピールするかのように大声で文句を言う彼女が、マウはどうしても苦手でした。きっとそんなに深い意味はないのでしょうが、彼女の鼻息やため息が聞こえるたびに、マウは自分が何か悪いことをした気分になるのです。

自分の正しさばかりを主張する太田さんが、私は絶対に失敗しないと言わんばかりに振る舞う姿が、なんだかマウは哀れに感じました。


「こうなりたい」と思える人は誰1人としていないのに「こうなりたくない」と思ってしまう人だらけ。マウは毎日職場で、そんなことを思っていたのです。


「異性に好かれる顔は、誰でも作れます。何と言っても化粧が大事!しっかりめに、でも濃すぎずナチュラルに」「男は案外、ぽっちゃりさんを好みます。デブじゃなくガリガリでもない、ほどよいぽっちゃりを目指しましょう」「『見た目よりも性格。許容範囲のルックスなら、全然恋愛対象になる』といった意見が大半でした」

時々、“手の中の窓”で見つけてしまうこんな情報に、マウはもやもやします。「好かれる顔は誰でも作れる?元々美人な子がメイクするのと、ブサイクがメイクするのは同じ結果になるとでも言いたいの?」「ほどよいぽっちゃりって、脂肪が付くべきところにちゃんと付いてて、引っ込んでるべきところがちゃんと引っ込んでる人のことを言うんだよな、結局は」「…その『許容範囲』がわからないから、世の中の女の子は苦労するんでしょうが!」

荒れ狂うマウ(笑)。それもそのはず、マウはぷっくりとしたやや大きめの丸顔で、目も小さく、低い団子鼻と勇ましい眉毛、“すとん”とした体型の、到底美人とは言えない女の子なのです。要するに、自分の見た目に自信がないのです。ずっと会えていないあの彼が美しいから、なおのこと。


「辞めれるもんなら辞めたいよ。でもね、働かないと生活できないから、我慢してでも今の仕事を続けるの。しょうがないことなの、それは。だって、お金がないと生活できないもの。不安でしょ?やりたいこともないし、欲しい物買って寝たいだけ寝て、彼氏もいる。もうそれでいいかなって。マウも高望みしてると婚期逃すよ?」友人の森田は言いました。

森田と話すたびにマウは、生きていくために「必要なこと」の数々にただただ圧倒されました。森田は森田なりに、真剣に切実に生きている。それをわかってあげなきゃいけないのに、彼女はなんだかとてももったいない生き方をしているなと、悲しく、もどかしくなるのです。

彼女は、自分がいつか必ず死ぬということをわかっているのかな?マウは疑問に感じていました。我慢しながら不安に備えるために働く、という生き方は、「あと1分で人生が終わる」その時に後悔しないだろうかと。私はそんなの嫌だ。生活に「必要なこと」よりも、自分にとって「大切なこと」を、たとえ片想いだったとしても愛し続けたい。マウはそんな価値観の持ち主です。

「やりたいことがない」と彼女は言うたび、ほんとうにないのだろうかとマウは疑います。心の奥底には小さく輝くものがあるのに、それから目を逸らしているだけなのではないか?それか、輝きの原石を見つける努力が足りないのではないか?仕事の文句を言うくらいなら、もっと他にできることはないの?愚痴をこぼしている森田への刺々しい気持ちが膨らむと、マウは自分なりの正義を胸にぎゅっと抱きしめ、一方では優しさのかけらもない自分が嫌にもなりました。


マウには素晴らしい親がいます。どんな間違いを犯したとしても、いつも無条件で受け入れてくれる親です。友達のような仲良し親子は他にいるでしょう。それとは違って、マウ親子には目に見えない小さな愛がたくさん詰まっています。マウのことを自分ごとのように、いや、自分ごと以上に大切に考えてくれる親です。

マウは、「私のことを一番よくわかっているのは親だ」と思って生きてきました。でも最近は、どうやらそうじゃないかもしれないと気づき始めています。8割くらいはわかってくれているだろうけど、残りの2割はそうじゃないだろう、そこはもしかしたら自分自身ですらわかっていないのかも、そう考えました。

「マウちゃんの人生なんだから、マウちゃんの生きたいように生きなさい」

羽を思い切り広げて自由に渡って行ってほしい、でも、自分で築いた家族と穏やかな生活を送ってほしい。この言葉の奥にある、永遠に終わりの来ないシーソーゲームのような複雑な親心を、マウはちゃんとわかっていました。


5.病は黄から

「そんなに言うなら私も言わせていただきます。毎日毎日ベチャクチャベチャクチャ、一体何なんですか。仕事しないでそんなに話したいことがあるなら、どうかここから出て行ってください。わからなくてどうしても困って相談しても、ろくに教えず話も聞かず、自分の言いたいことを押し付けるだけ。それで上手くいかなかったら、全部私が悪いって言いますもんね。そんな人私の上司じゃありませんので、今後一切、あなたには敬意なんて払いませんから。わかったか?!わかったなら仕事しろ!」

周りの視線が一気にマウ達に集まり、藤田の顔が凍りつきました。「ちょっとどうしたの、マウさんらしくないじゃない、落ち着いて」とってつけたような笑顔が馬鹿馬鹿しくて、滑稽に見えました。

あぁ、もういよいよ、私はここにいられなくなったのだ。マウはそう思いました。どこか別の場所へ行く時がとうとう来たのだとはっきりわかりました。その別の場所がどこかわからないから、という理由で何も努力しなければ、いつまでたっても羽ばたいていけないことも、努力が導きとなって新天地が切り拓かれるのだということも、マウは気づいていたのです。

行動しよう。やってみないとわからないじゃないか。マウは藤田からこれまで言われた乱暴な言葉たちを体のどこかに燃やしたまま、意気揚々と家に帰りました。今日の出来事で頭がいっぱいでしたが、ふーっと息を吐いていつもの椅子に座ると、今日はまだ彼からのメッセージが届いていないことに気づきました。“手の中の窓”を開きましたが、やっぱり届いていません。

その日、夕ご飯を食べ、お風呂に入り、寝る支度をしても彼からのメッセージは来ませんでした。仕事で忙しくて一度も来ない日は今までもあったので、少し寂しさは感じましたが大して気に止めませんでした。でも、次の日もその次の日も、そのまた次の日も…彼からのメッセージは来なかったのです。

何度も自分からメッセージを送ってみましたが、いつもなら返ってくるのに何の音沙汰もない。マウはとっても心配でした。でも、遠く離れた彼とつながる方法は他にはないので、ただただじっと待つしかなかったのです。

メッセージを待ち続けて5日目、出勤すると何やら騒がしく、周りの空気が明らかにいつもと違っています。何事だろうとマウは不思議に思い、向かいの席で藤田と鶴田がベチャベチャ話している声に耳をそばたてました。

話はこうです。最近の流行り病がとうとう大都会でも広まっているらしい。特に“異能力者”の間での広がり方は早く、今月に入ってから少なくとも20〜30人は感染している。彼ら彼女らがいないと全ての人間は生きていけないので、“異能力者”全員がいっぺんに家で休むことはできない。だから感染の広がりは止まらないだろう。

“異能力者”ー漢字のひしめく言葉が大好きなこの職場では、アプトやシカリ、ラタのような人たちのことをこう呼んでいました。嫌な予感がします。マウはすぐに不安でいっぱいになりました。居ても立っても居られなくなり、こっそりと“窓”を開くと、案の定、彼からのメッセージが光っています。

「そろそろ聞いた頃かな?大丈夫。ゆっくり休むから、安心してね」

やっぱりそうだったのか。マウの目は“窓”にビッタリと張り付き、周りのざわめきは遠のいていきました。鼓動は早まり、全身が固まり、彼からのメッセージが霞んでいきます。

流行りの病は、今まで誰も罹ったことのないような苦しいもので、中には死んでしまう人もいるのです。まるで火を吹く怪獣を体の中で育てているような熱さが、少なくとも1週間は続く。ドクドクと強く脈を打ち、頭は割れそうに痛み、それらの音と痛みで眠れないほどである。勝手に涙が流れ続けて、それはほんとうに涙なのか、汗なのか、それとも自分自身が溶けているのかわからないほど、身体と周りの世界がぬかるんでいく。何日もそんな症状が続き、しまいには狭い箱の中に閉じ込められたように体が動かなくなる。チカチカと星が飛んでいる視界はやがて、物と物の境目がぐちゃぐちゃに溶け合っていく。そんな感覚の中、蚊の息でなんとか呼吸するしかない。マウが見聞きした症状は、想像したくもないほどに激しいものでした。

その日マウは生きた心地がしませんでした。こうしている間にも、彼は高熱でうなされているかもしれない。目をつぶったまま頭痛の凄まじさに従うままかもしれない。肺が詰まったように呼吸をするのもやっとかもしれない。たくさんの「かもしれない」がひとつひとつ、マウの肩にのしかかり、歩いて家に帰るのがやっとでした。

「もしもアプトくんがいなくなってしまったら…?」1ミリでもこう考えると、ぞっとしました。人々のために身を粉にして働き続けた彼。そんな尊い人を消し去ってしまうなんて、運命はあまりにも残酷すぎるではありませんか。「どうか最後まで、神様がアプトくんを見捨てませんように」苦しそうに寝込む姿が頭をよぎるたび、マウはこう強く祈りました。

マウは想像力豊かな女の子ですが、現実的でもあります。さすがに自分が感染するのは嫌なので「私が彼の身代わりになれたら」なんて健気なことは考えません。だから祈ることが、今、彼に対してできる唯一のことでした。


6.自由の色は自由

次の日、マウはいつもの倍以上に重い足取りで、体を引きずって出勤しました。昨日よりもざわめきは落ち着いていましたが、どの部署も課長が不在なところを見ると、緊急会議中なのでしょう。どうせ私には関係のないことだ…それよりもなぜ、アプトくんが大変な時に、私はこんなところでいけしゃあしゃあとしていられるのだろう。マウの心は今にも崩れ落ちそうでした。

昼休みが終わって戻ってみると、机の上には「“異能力者”の感染拡大に伴う職員派遣について」と書かれた紙が置いてありました。“異能力者”に支えられていた人々の生活が、彼ら彼女らの感染によって壊れつつあること、彼ら彼女らに代わって働く人をあらゆる街から募集する、とのことでした。派遣職員には、まだ数少ない予防薬が手渡されるとも書いてあります。

そうだ、これだ!マウの目の前に一筋の光が指したようでした。でもそれは一瞬で消えてしまいました。

私が行ったところで、一体何の役に立てると言うのだろう。来る日も来る日もいびられ怒られてばかり、毎日をやり過ごす事で精一杯の今の私は、まだ何にも手にしていない。ほんとうの意味で人々のためになる力なんて、ひとつも持っていないのだ。だから、派遣されたってどうせ何も出来ないに決まってる。私が行くくらいなら、他の部署の若い男の子が行った方がマシ。

マウは恥ずかしくなりました。彼の代わりとして働けば、少しでも彼を支える力になれるのかもしれないと、一瞬でも期待したことが。でもそれは、泡となって消えました。きっと、可哀想なマウの恐怖心がそうさせたのでしょう。そしてこの時はまだ知らなかったのです。人間誰しもが持っている「立ち上がって一歩進む勇気」を。

職員が派遣された頃、彼の病状は回復に向かっていました。少しずついつもの生活に戻り始めたマウでしたが、いつまで経っても心の片隅には悔しさが残っています。

「変わりたい」藤田に逆らったあの日。この職場、そしてこの街から出て別な場所へ行こうと決めたあの日、マウはこう強く願ったはずです。自分から行動しようと決めたはずです。なのにまだ、これっぽっちも変わっていない。彼の病が心配で何にも手がつかなかったのは、ただの言い訳でしかない。悪いのは病が流行っているこの社会ではなくて、自分自身なのだ。たとえ彼がいなくても、いなくなってしまっても、それでも生きていける人間にならなければ、ほんとうの自由なんて訪れないのだ。

「じゃあ」とマウは自分に問いかけます。「あなたにとっての『ほんとうの自由』って何?」「…アプトくんと同じ世界を見ること」自信なさげなか細い声が聞こえてきました。「アプトくんと同じ世界ってどこにあるの?」「その世界を見た後、あなたはどうするの?見るだけで満足?」マウは答えに詰まりました。

「結局、あなたは彼に頼ったまま、抜け出せないのよ」意地悪に囁かれますが、反論したくてもできなくて、悔しいままです。「弱い自分が今、自由を手にしたところで使いこなせるはずはない」マウはこの明らかな事実を、仕方なく飲み込むしかなかったのです。


7.赤き野良猫、旅に出る〜待望編〜

悶々とした日々の中、マウはいつもより仕事が早く終わった夜に、久しぶりにあのガラス玉を取り出してみることにしました。彼が病に罹ってから、視界に入るだけでも辛かったガラス玉。カバンの底で眠っていましたが、手に取ってみると、そこには今までと変わらない美しさがありました。

ぼんやり眺めていると、少しずつ気持ちが晴れやかになっていきます。この安らかな時間に考えることといえば、彼の生い立ちや未来の姿、彼の好きな物、仕事中の表情、そしていつかくれた言葉たち…少し前までのマウならきっと、透き通った美しい世界に、彼のことばかりを映し出していたでしょう。

でも今日はちょっと違います。「マウ、あなたは本当に変わりたいと思ってる?」ガラス玉に向かって尋ねます。答えは「はい」でした。彼のいる世界を見てみたいのではない。彼と同じように、美しい空気を自分の力で作り上げ、それがみんなのためになるような生き方をしたい。やっとマウは、大切なことに気づいたのです。

今日はいつもよりも不自然なほどに月明かりが届き、眩しく感じるくらいです。静かに大きな決心をしたマウを、お月様が褒めてくれている感じがします。手始めにノートとペンを持ってこようかと、窓辺の椅子を離れようとしたその時です。ガラス玉が一瞬キラリと光り、マウは手元に視線を戻しました。こんな不思議な光り方は初めてだなぁと眺めていると、ガラス玉の濃紺の置き台のところにうっすらと繋ぎ目が見えました。

あれ…もしかして、外せる?繋ぎ目におそるおそる力を入れて下に引っ張ってみました。すると、下の部分がぱっかりとあっけなく外れ、ガラス玉には元々の半分の高さになった台が残りました。シカリとラタからもらって半年以上経った今日まで、マウはこの小さな秘密に気づかなかったのです。

外れた方は、蓋になっているだけでした。じゃあもう一方はどうなっているのだろうと、マウはそっとガラス玉をひっくり返してみました。

驚いたことに、ハンコになっているではありませんか。そこには字が何やら細かく彫られています。マウは急いで紙と朱肉を持ってきて押してみました。

“タマシイケズル、ユメヲカナエルタメナラバ”ハンコにはそう彫られていたのです。

「タマシイケズル、ユメヲカナエルタメナラバ」押した印を見るだけでは、何が何だかわからなかったマウは、2回声に出してゆっくり読んでようやくわかりました。

ふふっ、マウは笑います。アプトくんなかなかにポエマーじゃん。夢なんて言葉を最後に聞いたのはいつだったでしょうか。夢。口にすると甘酸っぱくて、照れ臭さが匂ってくる言葉です。その臭いには青臭さや子ども臭さも混じっていて、聞いた瞬間自動的に「バカにしなきゃスイッチ」が入りそうです。

でも、とマウは考えます。きっと、彼が彼のままでいられるのは、叶えたい夢があるからなんだ。毎日毎日ただひたすら、世の中のために働いているように見えた彼が、自分の夢を追いかけているなんて知らなかった。彼がどんな夢を描いているのかわからない。それでも今、確かにわかっていること。それは「夢のために歩き続けるのは素晴らしい」ということ。マウの目に映る彼は輝いていて、強くて真っ直ぐで、優しい。ほんとうはしがらみだらけの世界にいるのだとしても、そんなの微塵も感じさせないくらいに自由にも見える。

彼の行動や言葉、表情のひとつひとつが、夢という縦糸でつながれている。それが「夢とは素晴らしいもの」ということを紛れもなく証明しているじゃないか。

そうか、彼の世界を見たい、彼のようになりたいという気持ちは、自分自身の夢を叶えたいという気持ちと同じだったのか!マウの目の前に、いつまでも消えない一筋の光が現れました。その夢とは一体何なのでしょう。この時のマウはまだ、わからないままでした。


8.赤き野良猫、旅に出る〜変貌編〜

それからマウは、はっきりと変わり始めました。まず、“手の中の窓”を置いた代わりに、“机の上の窓”を好んで使うようになりました。机の上、つまり家の中で出来る勉強がこんなにも楽しいのかと思い知ったのです。勉強といっても、先生が黒板に書き連ねる退屈なものではありません。気になったもの、楽しいと感じるものを片っ端からぐんぐん吸収していったのです。机の上だけの勉強は役に立たないなんて言う人もいるでしょうが、決してそんなことはありませんでした。“机の上の窓”はマウに、「それはちょっと違うんじゃない?」と賛成できないことも織り交ぜながら、たくさんの「未知」を映し出してくれました。マウはまるで、禁断の林檎を食べたかのように、星の数ほどの情報の海に潜って行ったのです。

同時に、本もよく読むようになりました。本はいつも、マウを静かに待っていてくれます。職場の人たちやお客さんの言葉が頭から離れない時も、自分のしょうもない失敗が目に焼き付いている時も、延々と続く文字の山脈を一歩一歩登っていくだけで、マウの心は解き放たれました。世界中の本は一生かけても読みきれませんが、だからこそ、今手元にある一冊が愛おしく運命だと感じました。「あぁ、この本を私のために書いてくれたんだ」と幸せな思い込みに浸りながら。

勉強や読書がいくら楽しくても、続けているとやっぱり気が散ってしまいます。そんな時、マウは体を動かすようになりました。普通に生活していれば動かすことのない筋肉を、四方八方に伸び縮みさせる。すると身体中に血が巡り、今まで自分の体がどれほど冷え切っていたのかを思い知らされます。激しい動きに耐えると、バクバクと心臓が生き返ってきます。不思議ですよね、心臓はいつもそこにあって止まることはないのに、せわしない毎日を過ごしているとつい、その存在を忘れがちです。マウは運動が好きになってから、手足、頭、目と耳、肌、身体中の全てが自分のものなんだと強く感じるようになったのです。精一杯体を動かした後は、少しだけ世界がくっきりしている気がしました。

体を鍛えてもその体を活かせるだけのパワーがないといけない。でもそのパワーが今の私にはない。マウは自分の体質を根っこから変えたくなりました。平日は仕事で精一杯で夜は疲れて動けない。休日はなんだか朝から頭がぼんやりする。それはなぜだろう?答えはすぐに見つかりました。食べ物です。マウは甘いお菓子や塩辛いバリバリとした物、味の濃い誘惑たちが大好きでした。疲れた日の夜も、開放感で満ち満ちた休みの日も、それらはマウを幸せにしてくれました。

でもそれはほんとうの幸せなのか?それらを食べていると、美味しさの後に必ず「飽き」がやってきます。次の日には心にも体にも「だるさ」がやってきます。マウはそんな“幸せもどき”にハマってしまう自分が嫌になりました。そして、食べ物を変えなければ次のステップへは行けないだろうと確信し、まるであの手この手の化学実験のように作られた食べ物たちを食べないことにしたのです。もちろん、たまには誘惑に負けますがね。

それから何日かたつと、すぐに色々なことが起こりました。まず、朝の目覚めが良いこと。眠りにつく時間が少し遅くなっても疲れにくく、元気でいられました。昼間は頭がシャキッとして、言葉がスルスルと口から出てきます。何かを選んだり判断したりするにも時間がかからなくなり、心が凪ているみたいです。そして、毎回のご飯の味がくっきりとしてきて、今までよりも楽しく食事をするようになりました。

これらの変化は一方で、自分には合わないことが何なのか、についても教えてくれました。

まずは職場。「やっぱり今の職場は合わない」のだと確信を持てるようになりました。頭も心も体全体が元気になってくると、今いるところだけがマウの居場所ではなく、新しい居場所があるはずだと思えるようになったのです。そして、他の場所でやるべきことがあるだろうとも思えました。

今見えている世界だけが全てではない。今の職場が悲惨なところだとしても、他もそうだとは限らない。きっと今よりもっとひどいところだってあるでしょう。でもそればかりを恐れていたら、今よりもっと素敵なところを見つけることだってできないのです。世の中には私よりも辛い日々を耐え続けている人がいて、それに比べたら私は弱い甘ったれなのかもしれない。でも、マウにはマウの辛さがあるのです。耐え続けるか、終止符を打つかは、誰に決められることでもなく、マウの自由なのです。

マウはいつの間にか、自分で何か新しい仕事を作ってみたいとも思うようになりました。ありとあらゆるものを「つなぐ」仕事をしていて、人々が何に困っているのか、マウなりに見えてきたものがありました。「これがあれば幸せになれる人がいるのに」「あれはもっと売れるはず!」と考えたのです。

ぼんやりとした夢の芽が顔を出すと、自分の力だけでの実現は無理だと気づきます。だからマウは、新しく人の輪に入ってみることにしたのです。夢を追いかける人々、まだ見ぬ世界を自分に見せてくれる人に、出会いたくなったのです。

セシケの人々は毎日を淡々と過ごしていて、誰と誰が知り合いだとか、どこにどんなグループがあるのかだとか、一人暮らしのマウに分かりっこありません。紹介してくれる人はおろか、そんなことを気兼ねなく聞ける人だってマウの近くにはいませんでした。

“机の上の窓”を覗いていると、その中によく登場する人々が大きく2つの種類に分かれることに気づきました。輝かしい毎日を送っている人と、不幸な境遇に嘆く人、です。“窓”の中で知り合った人々は、マウの見たことも聞いたこともない情報を持っているように見えました。マウは特に親しくなった人とメッセージのやりとりをしましたが、結局、お互い自分が可愛いので、連絡は途絶えてしまいます。それにマウは、「素晴らしい情報を持っていますよ」と臭い匂いをぷんぷん漂わせておいて、いざこちらが一歩踏み込むと逃げ隠れする人たちがどうにも信用できませんでした。

この体験からマウは学んだのです。見たことも会ったこともない人とメッセージのやりとりだけで仲良くなることは、自分には合わないのだと。夢を叶えるために、まずは自分の足でしっかりと立ち、自分の力だけで自分を支えられるようになろうと。

そして、新しい仕事を作りたいという「夢の芽」らしきものは、実は「大きな憧れ」だったということにも気づきました。仕事を作るための勉強もしたし、幾度も頭をひねりましたが、どうもそこに「楽しさ」や「ワクワク」を感じられなかったのです。だからこそ“窓”の中の人々に頼りたくなったのでしょう。絶対に叶えたいというよりは、成功して自由になった自分を想像し、憧れているだけだったのです。

新しい仕事を作るのは、これからの人生でいつか「やれればいいこと」なのだろう。でも今の自分には合わないな。そう思いました。

自分に合わないことをやってみて、損も後悔も全くありません。むしろマウは大きく得して、大勝利しました。進むべき道が「左右前方を確認しながらそのまま直進」にしぼられたからです。

「やるべきこと」「やれること」を一旦端っこに追いやって、ほんとうに「やりたいこと」は一体何だろう。この物語を読んでくれているあなたも、一度はそう考えたこと、ありませんか?

マウには、自分を変え始めてから大好きになったことがあります。それは、「言葉と言葉を紡ぐこと」です。想い、考えたこと、誰かに知ってほしい体験など…それらにふさわしい言葉を探し出して、ひとつひとつ組み立てたり結んだり。普段口数の多くないマウは、文章の中でだったらユーモアを交え、おしゃべりになれました。

言葉と言葉を紡ぐという行為は、マウの魂をそのままの形で表現できるものでした。24時間の中でほんの12分の1くらいの時間だったとしても、言葉と向き合う時間はマウを解放し、与えられた枠の中から飛び出す勇気をくれたのです。

そんなかけがえのない居場所があるからこそ、思うようにいかない毎日の仕事も、生活のため、そして自分を磨くための試練だと思って乗り切っていけたのです。

「夢を見つけ、それを叶えること」と「変わりたい」という気持ちは、この時のマウにとって同じ意味でした。そして、その気持ちのままに進む時、マウをいつも照らしてくれたのは、他ならぬ彼でした。一生かけても近づけない、もう2度と会えないのかもしれない。それでも、夢を教えてくれた彼が、遠くの方からずっと、マウを呼び続けてくれたのです。


9.金と橙

その日、マウはいつもより早く目が覚めました。時計は4時58分を示しています。寒い冬。外は真っ暗です。もう一眠りしようと寝返りを打ち、目を閉じました。あと2時間も眠れる…とぬくぬくした布団の中でニンマリしながら眠りが訪れるのを待っていると、ゴォーという音と共に家が小刻みに震えはじめました。

「地震かな」少し心配になって目を開けましたが、なにせ布団が大好きなマウなので、体を丸めたままなかなか動き出せずにいます。外は暗いのになぜか、カーテンの隙間からは白っぽい光が漏れ、マウが向く方の壁をかすかに照らしています。しだいに地鳴りのような音は大きくなり、揺れもひどくなって、台所はカタカタと騒がしくなりました。白っぽい光もだんだん強くなり、まるで何かがこちらに向かって来るかのようです。

もうだめだ、逃げなきゃ!耳を圧迫する音と、床が真っ二つになってもおかしくはない揺れの中、マウは決心してなんとか起き上がりました。すると、部屋が一瞬ビカッと光ったかと思うと、今までの人生で聞いたことがないくらいのドーン、ガシャン、バリバリが耳をつんざきました。そしてマウは何が起こったのか全くわからないまま、頭が真っ白になって3秒くらい何も聞こえなくなったのです。びっくりなんてもんじゃありません。その瞬間、確かにマウの意識はこの世から消えました。死んだ、そう呟いて世界を諦めかけたのです。

しかし、うっすらとしか見えなかったその景色は、目の焦点が合ってくると少しずつはっきりと見えてきました。驚いたことに、一面、オレンジと金色の世界です。

夢じゃないかとマウは自分の右頬を軽くつねってみましたが、ほっぺたのギュッと引っ張られる感覚が、当たり前にあります。信じられませんが、マウの目の前に広がる光景は現実なのです。

放心しぼーっとしていると、そのオレンジと金色が船の先端部分であることに気づきました。船といっても、漁船や遊覧船ではなさそうです。どうやらマウの家に、豪華客船が突き刺さっているようです。

「お待たせ」後ろで声がして、マウは飛び上がりました。おそるおそる振り返ると、なんと女の子がひとり、こちらを見つめているではありませんか。「マウったら、随分とへんぴなところに住んでいるのね。見つけるのに苦労したじゃない」10歳くらいでしょうか。赤毛を三つ編みにしていて、色白、丸顔にうっすらと広がるそばかす。ベッドの上に座っているマウの視線と同じくらいの背丈。鮮やかなブルーの瞳がキラリと光りました。「…なんで私の名前を知っているの?」あまりにも自然に名前を呼ぶので、マウは怖くなりました。「ふふ。だってちゃーんといつも、見てるもの」女の子は何か企んでるようにニヤリとしました。

「さぁ行こう!マウ」「行こうってどこに?」「どこにって、旅よ!旅!ほんとうの旅って、行き先が決まっていないものなのよ」「ごめんね、私はあなたが誰かわからないし、そもそもなんで私が旅に出なきゃいけないの?」「なんでって、マウ、いつも『どこか違う場所に行きたい』って願ってたじゃない。それがとうとう叶うのよ。行くしかないわよね?」「いや…そう言われればそうだけど…でも、行き先も地図もお金もなくてどうやって旅するの?」「そりゃあこの船に乗るに決まってるでしょう」「いや…あの、さっきから言いたかったんだけど、この船、停まるところ間違ってるよ。何で船が陸にいるの?うちに来るの?船はそもそも海を渡るものだし、こんな家につっこむはずないよね?」「そうとも限らないわ。海を渡る船がアリなら、海じゃないところを渡る船だってアリよ」

もう訳がわかりません。

「マウ、そんな格好で乗るつもり?もっとマシな服ないの?」女の子は呆れ顔で言いました。「かの有名なゴールデンパンプキン号が迎えに来てるんだから、そんなパジャマみたいな格好してないでドレスアップしてよね」「色々とツッコミどころが多くてどこから手をつけたら良いかわからないんだけど、そのゴールデンパンプキン号とやらがうちをぶっ壊すまでは平和な夜だったから、私、パジャマ着て眠ってたのよね」マウはそう言うと、クローゼットからお出かけ用のワンピースを取り出しました。「うーん、もっと違うのないの?動きやすくて、特別なやつ」女の子は渋い顔をしています。ドレスアップが求められる場はスカートだと思い込んでいたマウでしたが、どうやら違うようです。この女の子が常に変わったことを言うのに早くも慣れてきたマウは、紺色のチェック柄のパンツと淡いライトブルーのセーターを出してみました。セーターは2、3日前にふるさとから届いた、母の手編みのものです。「…まぁそれでいいわ」「魔法使いのおばあさんが現れて、ドレスに変えてくれないかな」「言っとくけどね、これは魔法じゃないの。現実よ」


10.案内役、シェリャナ

船の中は、想像していたよりもきちんとしていました。船首は外に出られる場所と一面ガラス貼りのラウンジに分かれていて、どちらも椅子とテーブルの空席がちらほら残るほどのにぎわいです。中央部のレストランは天井が開くようになっていて、夜はきっと、星が降ってきそうに見えるだろうなと、マウは少し期待しました。そして、外のデッキに出なくても景色が十分に楽しめるよう、大きな通路には金の装飾が施された窓が、たくさん連なっていました。

シェリャナというその女の子は、船を案内しながら、止めどなく喋り続けます。「今夜のディナーショーはね、かなりおすすめよ。なんてったってあのユウヒが歌うんだからね」「誰それ」「知らないの?赤ん坊をおぶりながら、ステージに立つ人よ。いつ寝てるのかわからないって噂の。もう、とにかく歌声が完璧に素晴らしいの。だから絶対観に来てよ」「ふーん」「そうそう、ここのディナーもかなり美味しいのよだからなるべくなら朝ごはんは食べないで、胃を休ませた方がいいわ。その方が夕食が美味しくなるから。みんな、毎日食べすぎなのよ。朝昼晩朝昼晩ってバカみたいに」「三食きっちり食べるのが健康に良いんじゃないの?私も最近朝は軽めだけど」「ほんと、常識って疑うためにあるものよね。マウも私みたいに、用心深く疑えるようになった方が良いわよ」「シェリャナのように…なんだか色々と大変そうね」「賢い人間は大変よ」「自分で言っちゃうのね、そこ」

今、船が進んでいるのは海ではなく、陸です。人の背丈の2倍はある草が鬱蒼としている大地の上。青々とした大群を、魔法で追い払うかのように前進しているのです。

マウはふと、1人の白髪の後ろ姿に目が止まりました。小さくて古い布の切れ端をたくさん集めて、雑に縫い合わせたようなドレス。それを着た上に、派手な柄のストールを何重にも首に巻きつけています。ずっとうつむいている老婆の横を通り過ぎ、振り返ってみると、ペンを持って何か書いていることに気づきました。

「あの人…」マウが言うと「あぁ、書き物ばあさんね。有名人よ。毎日あの席に座って、ひたすら何かを書いているの。日記だか小説だか不明だけど、朝から晩までずっとよ。トイレに行くところすら、誰も見たことがないの。この船は変わり者だらけね…」シェリャナが早口で言いました。「あなたも十分変わり者だと思うけど」「あらそう」

「色々な人がいるわ…ねぇ見て、今、カウンターに1人座ったでしょう?他に空いてる席があるのに、両脇がすでに埋まっていて1席だけ空いてるところに。人間ってね、隙間を埋めたくなる生き物なのよ。お気に入りをコレクションしてたら、「今度はあれを買いたい!」って空いてるスペースをどんどん埋めたくなるわよね?空いてる時間が耐えられなくて、予定と予定の間にさらに予定を入れちゃって、パンパンに膨れ上がったTo Doリストを作っちゃう人だっているでしょう?んまぁ、そんな本来の習性を上手く活かすことだってできるんだけどね。マウは文章を書くのが好きなんだから、最初から完璧に書こうとしないで、文と文の間に隙間を持たせたら良いわ。後で必ず埋めたくなって、執筆の時間だって自然と増えて、どんどん良い文章が書けるようになるわよ」「だから、なぜ私の趣味まであなたにダダ漏れなの?」「言ったわよね、マウのことは何でもお見通しだって」

船内をひと通り見回って、マウとシェリャナはオープンデッキにたどり着きました。景色はいつの間にか、さわさわと心地よい風が吹く大草原に変わっています。どこまでも続く地平線を眺めながら、2人は会話を続けます。

「“多元的無知”って知ってる?これはね、みーんな同じことを思っているのに、『こんなこと思っているの自分だけだ』って思い込んでしまって、自分の意に反してやりたくないことをやってしまう、可哀想な人間たちのことよ。パーティが終わって、これからうちに来て続きをやらないかって偉い人が言うとするでしょ。ほんとうはみんな、明日の朝早いからとか、家で可愛い子どもが待っているからとか、偉い人のご機嫌取りを散々やって疲れたからとか、色んな理由で今すぐにでも帰りたいわけよ。でも、あからさまに態度に出すと、偉い人の機嫌を損ねるんじゃないかと思って、ニコニコと『いいですね、ぜひ!』なんて心にもないことを言ってしまうの。みんながそんな態度だから、『行きたくないのは自分だけなんだ』って思い込んでしまってね」

「シェリャナ、あなたほんとうに子どもなの?何でそんなに物知りなの?」「私はね、いつも知識を集めていないと生きていけないの。おかげで毎日大変よ。学校では完全に浮いてるわ」「一応学校行ってるのね。行かなくても良さそうだけど」「ふふ。結局私も、多元的無知の罠にかかってるってわけね」

「この世界は、自分以外の人を信じるからこそ回っているのよね。『あの人もその人も、私みたいな悩みを抱えているはずなんてない。この人たちを信じて、私もここで生きていこう』って。だって、みんながそれぞれあぁだこうだと不満や苦悩を言い始めたら、どこの組織も崩壊するもの」「えぇ、わかるわ」

「だからこそ知識が必要なの、マウ。知識を持って、毎日一生懸命生きていれば、自分の頭で考えられる人になれる。知恵のある人になれるのよ。知恵こそが狭い世界からの脱出を助けて、たどり着きたい場所に連れて行ってくれるはず。どうかそれだけは覚えていてほしいわ」

さてと、私ばっかりと話してないでもっと色んな人と話しなさい、とシェリャナはいたずらっぽくマウの顔を覗きました。あなただって随分楽しそうに話してたよね、とマウは返します。きらきら光るブルーの瞳を見つめながら。


11.編み物職人、オーヴェ

景色はがらりと変わり、今度は木がびっしりと覆う山々の谷間を縫うように進んでいます。急なカーブが続き、行く手は山の斜面に隠れて見えません。かなりスピードを落とし、どんぶらこ、どんぶらこと聞こえてきそうです。

「ちょっとすみません、あなたのそのセーター、近くで見せていただけませんか?」ラウンジでどこに座ろうか迷っていると、突然声をかけられました。その人は190cmはありそうな大男です。彫りが深く、整った顔に栗色の髭を生やし、全身緑のニットを身にまとっています。「いいですよ」マウがそう言うなり、じゃあじゃあこちらでコーヒーでも、と大男が促します。

2人がけの席につくやいなや、大男はマウのセーターに注目し始めました。「すごいなこれは…見たことがない…ここは鹿の子編みで、ここがアラン模様か…なるほど。この編み方の組み合わせ…正面はこうなのに、後ろはこうで、それでいて脇はこうと来たか…いやぁ素晴らしい」マウはなんだか、この男が怪しく感じました。「…これはかなり寒いところの糸だな…染めはきっと機械だけれども…なかなか良い染料を使っている……どうもありがとう」いきなり会うなり着ているものを褒めちぎるなんて、この男、やっぱりインチキ臭くて仕方がありません。

「申し遅れました。僕の名はオーヴェです。あなたは?」「私はマウと言います」「マウさん、このセーターはどこで手に入れたんですか?」「母が編んでくれました」「お母様が…どうりで見たことないわけだ。とても素敵です」この大男を信用して良いのか、マウは不安でしたが、気に入っているセーターを褒められて内心嬉しくもなっていました。

「編み物にお詳しいんですね」「えぇ、これでも一応編み物職人をしていますから」「職人さんにこんなセーターを褒めていただくなんて…」「編みたい気持ちにプロもアマもありませんよ。実は僕が今着ているものだって、自分で編んだのですよ」「ほぉ…」オーヴェの話す表情に気を取られていたマウは、目線を少し下に移しました。

「赤、青、緑ってざっくりとした名前で呼ばれていますが、色は色々、あ、つまんないシャレ言っちゃいましたね、でもほんとうに色々な名前がつけられているんです。例えばここの鮮やかなのは常盤緑。暗いところはびろうどって言います。ここの少し灰色っぽくもやがかったのは青竹色で、びろうどと同じような暗さだけどこっちは千歳緑。一生かかっても全部にはお目にかかれないくらい、色というものはたくさんありますし、編み方は何通りもある。編み物とはほんとうに面白い世界です」遠くから見るとただの緑なのに、間近で見ると色の組み合わせをかなり深く考えて編まれたことがわかりました。ひと針ひと針、編み目が同じ大きさになるように、かなり丁寧に作り込まれていることも。こんなに美しいニットを着て散歩したら、森が喜んで樹々の声が聞こえてきそうだ、マウはそう感じました。

「へぇ…小さい頃は母とよくやりましたけど、最近は全然やらなくなりました。オーヴェさんはいつから編み物を?」「僕は編み物職人になるまで、医者をしていました」「お医者さんとは、意外ですね」「よく言われます。医者を辞めたのが30歳の時で、その2年くらい前から編み物を始めたので、今年でちょうど10年です」「10年やるとこんなに素晴らしい物が編めるようになるんですね」「いや、まだまだです。上には上がいますよ」

「どうして編み物職人に?」マウがそう尋ねると、「話は長くなりますが」と前置きして、オーヴェは語り始めました。「僕は皆が認める優秀な医者でした。医大をトップで卒業し、大病院の外科に勤め、挫折知らずの人生で。毎日24時間が体感1秒でしたが、患者からは慕われ、周りからはチヤホヤされて、幸せな人間でした。ところがある時、思ったのです。自分が求めた人生とは、こんなものだったのかと。僕が行った治療で生き延びる人、死にゆく人を山ほど見ましたから、後悔しない人生とはどんな人生なのか、嫌が応でも考えてしまったのです。その結論が、もの作りでした。僕が死んでも、この世界に残り続けるものを作りたいと思ったのです」

外に広がる山々は、岩肌が露わになった断崖絶壁に姿を変えていました。垂直にそびえ立つ薄い灰褐色の景色は、白っぽい蒸気で見え隠れします。どうやらその蒸気は、地面から湧いてくるようです。

「クリエイティブな活動だったら正直何でも良かった。編み物に惹かれたのは、努力の時間が増えるほど編んでいる物がどんどん大きくなっていくのが、はっきりと目に見えて、わかりやすかったからです。人体を縫い合わせる針よりも、美しい色の世界を生み出す針に惚れました。医者を辞めるなんて大馬鹿者だと、周りは非難轟々でしたけどね」

右手の指にはタコがあり、形の良い目の下には青黒いクマ。オーヴェが大きな体を小さく丸めて、朝から晩まで編み針を動かす姿が、マウには想像できました。

「この船に乗っているということは、マウさんもなにか強い想いをお持ちなんですね」「はい」「厳しい話になりますが、シンデレラストーリーなんて、待っていませんよ。ある程度努力すれば、時には運よくドアが開くなんてことはありますが、そこにゴールはありません。あるのは、天からの恵みは降って来ず、干からびた地面が広がっているだけの、どこまでも続く細々とした道です。ひたむきに努力を重ねるだけの道です。そんなひどい道でも熱狂できる自分がいるのなら、絶対に諦めないでください。お母様のセーター、大事にしてくださいね。応援しています」


12.ユウヒ、乳飲み子を背負い

「こんばんは。元気?来てくれてありがとう。今日こそはドタキャンしなかったの。珍しいでしょう。誰よりこの私が一番驚いてるわ」

夜になり、レストランはこの日一番の活気で溢れています。開け放たれた天井から覗く満天の星空が、マウの胸を躍らせました。家の窓から眺めるセシケの夜空とは違い、星々の色や大きさまでくっきりと目に飛び込んでくるのです。天の川の水が、人々を慈しむ雨となって降り注ぎそうな感じがします。

「見て。可愛い。まだ生まれて3ヶ月なのよ。夫と別れたから、夜見てくれる人はいないし、シッターを頼んだけど泣いてひどくて連れてきちゃった。今夜はこの子をおぶって歌うわ」

小さなステージに立つユウヒが、背中で眠る赤ん坊をお客に見せながら話しています。浅黒い肌にとんがった鼻、切れ長の目、炭みたいに真っ黒な髪はちぢれ毛で、ずんぐりした小太り。漆黒のドレスは、ビーズの付いた刺繍にスポットライトが当たり、まばゆく輝いています。

「早くも新恋人が出来たなんて噂してる人たちもいるみたいね。どうぞご勝手に騒いでてちょうだい。騙されないでね、9割は嘘よ」

昼間にあったこのフロアの壁が、ショーに合わせて全てはずされています。流れ星が2つ、か細い光を引き連れ、人の願い事を叶える暇なんてないぞと言わんばかりの速さで、暗闇をスーッと駆け抜けていくのが見えました。

「最近はパニック発作がひどくて、死ぬかと思った。いたって健康で疲れもないのに、急に心臓がバクバク言い始めて、クラクラめまいがするの。汗もダバダバよ」

この軽快な口調のざっくばらんとした女性が、心を病んでいるなんて。マウは信じられませんでした。

「歌を作ることが比べ物にならないくらい、母親って大変ね。私は生まれつきおしゃべりだけど、この大変さを何に例えようか、今でも全く思いつかないわ。とにかく大変なの。特に男性達、覚えておいてね。私のショーに来るくらいの殿方には、妻に甘々の夫でいていただかないとね」

「みんな、思うでしょう?何で私がこんなに自分のことを包み隠さず話すのかって…それはね、音楽に対して、正直でありたいからよ。歌手でいるからには、常に説得力のある音楽でみんなを唸らせたい。恋愛関係が不誠実でも、音楽に対しては世界一誠実な私なんだから」

その夜、マウは生まれて初めて、人の声が自分に迫ってくるという体験をしました。力強くも繊細で、憂いと湿り気を帯びた歌声。唯一無二のユウヒの声は、いつまでもいつまでもマウの中に残り、これからの御守りになってくれる気がしました。

「外見の醜さが何だっていうの。上等よ。どんなにブサイクで太っていたって、自分を正直にさらけ出せるものがある人は、強いわ。そんな人はなかなか死なないのよ」ユウヒは満面の笑顔を咲かせました。まるで、家に帰るのが残念になるくらい楽しかった日の、帰り道の夕日のように温かい笑顔でした。


13.説明家、マルイオ

朝目が覚めるとマウは、家のベッドよりも一回り大きいベッドに横たわっていました。昨日のことはやっぱり夢だったんじゃないかと、捨てきれない疑いに身を任せて起き上がると、窓には一面虹色の世界が広がっていました。驚いてかけ寄ると、何色もの移り変わりを延々と繰り返している氷の海がそこにありました。「これなら氷河期も悪くないかも」思わずポツリと独り言を呟くマウです。

お腹が空いたので昨夜のレストランに行ってみると、そこは雰囲気のすっきりとしたカフェに変わっていました。カウンターに空いてる席を見つけたマウは、隣の紳士に声をかけました。「ここ、座ってもいいですか?」「どうぞ」モーニングセットを注文し、朝のざわめきの中でぼーっと過ごすマウの脳裏に、昨日のシェリャナの言葉が響きます(「他のお客に声かけてみて」)。

「難しそうな本をお読みなんですね」「あぁこれですか。読書も仕事のうちですから」「お仕事は何を?」「説明家です」

マルイオと名乗る、引き締まった体つきの40代くらいのその男は、かなりしゃきしゃきとした声とリズム感で話し始めました。聞けば彼は売れっ子の説明家で、求められれば世界中のどこへでもかけつけるとか。この船にもこれまで何度も乗って旅をしたとのことです。

「説明家って何を説明するんですか?」「もう何でもですよ。毎日のニュースから、売れてる本の内容から、期間限定のお菓子のことまで、何でもありです。僕は元々は法律を少しばかり知っていたので、法的ないざこざの解決方法だって話します。でも最近はもっぱら、流行り病のことばかりですがね」「すごい方なんですね」「とんでもない。僕みたいな人間は他にも沢山いますよ」

焼きたてのトーストと半熟の目玉焼き、程良く焼き目のついたテラテラ光るベーコンが目の前にどんと鎮座していても、マウはこの男の話と身振り手振りに引き込まれました。

「今回はどちらへ?」「いや、もう仕事が終わって家に帰るところです。妻と子供達が、僕じゃなくて土産を待っていますから。なにせこういう仕事なもんで、家でもついつい喋りすぎて、みんな渋い顔してますよ」冗談半分に語るその表情は少し嬉しそうです。男の家のにぎやかで幸せな空気をマウは感じました。

さっき読んでいた本のことや、この船で出会った人のことなど、男の語りに耳を傾けていると、マウは言葉という物が本来持っている力を思い知らされました。マルイオが口にする言葉のひとつひとつが、マルイオのために作られた特別な物のように感じられたのです。それくらい、この男は自分が伝えたいことにぴったりな言葉を選び取る能力に長けていました。

「あの、マルイオさんはどうやって説明家になったんですか?その、お話があまりにもお上手で、どんな人生を過ごしてきたらこんな風になれるのかと…」「ありがとう。そこそこ偉くなってしまうと褒められることもなくなるのでね、嬉しいですよ。さっきも話した通り、僕の専門は法律。法律を武器にしてしまえば、誰にだって勝てると思って学びました」「えぇ」「で、なぜ誰にでも勝たなければいけなかったのかというと、生まれた時すでに大きな負けを背負っていたからです」「大きな負け…」「“家”ですよ、マウさん。代々ゴミ回収をしている家に生まれました。それがどういうことかわかりますか?」「…わかります」

「川沿いのボロボロの木造の家に、家族5人で住んでいました。僕らのやるゴミ回収は、お役人の監視が厳しいんだ。どんなに泥だらけで犬の糞やら反吐やらがこびりついていようとも、目の前のゴミから逃げることはできなかった。逃げようものなら、けして多いとは言えない給料がさらに減らされるからね。当然のように、僕は学校でみんなから相手にされない。いじめられたんじゃなくて、まるで最初からいないように扱われたんだ。何十年経った今でも、あの頃の記憶は忘れないですよ」

天気が良いからか、昨夜はずされていた壁はまだ戻されていません。見えるのは赤茶色した噴火口のような風景。時々、虹色の砂のようなものがブワーッと吹き出し、天高く舞っています。

「だから、どうにかして人生を変えるしかなかった。さもないと僕は、生まれた時から一生ずっと、心も体も死んだように生きることになる。そんなの絶対に嫌だった。たまたまゴミ回収の家に生まれたという理由だけで、人間以下の扱いをされるなんて、おかしいに決まっているだろう?まぁ幸い、学校の勉強はよく出来たし好きだったから、法律に人生を賭けてみることにした。法の下の平等を信じたんだよ」

マルイオは話し続けます。「色々な人に法律を説明しているうちに、僕の話が面白いと評判になったようで、少しずつ法律じゃないことの説明も頼まれるようになりました。まぁ最近は、説明よりも意見を聞かれる時が多くてね。僕について、世間は賛否両論分かれてるらしいですよ」

マウは、この男がこれまで歩んできた道のりを、黙って考えていました。学校の教科書の、ほんのわずかな文字からこぼれ落ちてしまう、大勢の人々。その人々の大きなうねりの中で、マウもこの男も生きているのです。

今度はあなたが話す番ですよ、と切り返され、マウは正直に身の上話をしました。仕事のこと、上司のこと、「書く」のが大好きなこと、そして夢のことを話したのです。

「はっきり言って、マウさん、逃げていませんか?君の仕事は十分立派な仕事だよ。マウさんのような仕事に就く人材は少ない。今の仕事を続けていれば、君は一生食いっぱぐれない。安定した生活を送れるし、自分の仕事のお陰で助かる人がいる、そしてこの世界も貴重な人材を失わずにすむ。こんなにもメリットがあるのに、別な夢を追いかけたいなんて勿体ないじゃないか。いいかい、不自由な中にいるからこそ、自由は生かされるんだ。そうでしょう?」

理路整然としたマルイオの喋りに、マウはひるみそうになりました。でもこの人は、誠心誠意で言葉を返せば聞いてくれる人だ。なんとなくの直感が、マウの重たい口を開きます。

「確かに、マルイオさんのおっしゃる通りです。私はわがままなんでしょうね。今の仕事は自分に合っていない感じがするけれど、少しでも人々の役に立てているのなら、辞める必要なんてないのかもしれない。そうですよね。でも、このままは嫌なんです。仕事での壁も、人間関係の醜さも、どこに行ったって逃れられないこと。それはわかっているけれど、それでも、一度生まれ変わって夢を追いかけたいんです。夢が叶うまで、がんじがらめの不自由だとしても、その先の自由のために走ってみたいんです。私の苦労なんて、マルイオさんが子供の頃にした苦労とは比べ物にならない、ちっぽけな物です。だとしても、あなたはこの思いをわかってくれるでしょう。だから今こうやって、お話できたのです」

「マウさんにとっての逃げとは、夢を捨てることだったのですね」マルイオは言いました。「毎日続けてごらん。どんなに疲れていても、上司が頭にきても、お客さんの言葉や態度に傷ついた日も、言葉の海に潜るんだ、マウさん。続けるうちに、言葉はあなたの一番側で支えてくれる、強い味方になる」

モーニングセットはすっかり冷えてしまいましたが、マルイオと語った余韻の中で、これはこれで美味しいじゃないかと、マウはお腹を満たしました。

14.詩人、リミコ

突然、ゴォーッという凄まじい音がして、船内はぐらぐら揺れました。船が陸を離れ、なんと空に向かって上昇し始めたのです。ぐんぐん高度を上げ、今やターコイズブルーの明るい海の上を飛んでいます。

船内を歩いていると、昨日と同じ場所に座って、何か夢中になって書いている老婆を見つけました。外にはこんなにも綺麗な景色が広がっているのに、真横にある窓の存在に気づいていないかのように、ただただ手元の一点のみを見つめ、せっせせっせとペンを走らせています。

「すみません。ここ、いいですか?」マウが尋ねると老婆はびっしりと書き込まれたノートのページをめくり、「どうぞ」と書きました。「ここの席、お好きなんですか?昨日も座っていましたよね」ぼんやりすると会話のタイミングを見失いそうだったので、席に座って一呼吸置き、すぐにマウは問いかけました。すると今度も老婆はノートに書き始めます。「特等席」「…そうなんですね…」椅子の形も、机の大きさも、窓からの眺めも他と変わらないのに、とマウは不思議に思いました。でも、声を発することなく筆談する様子からも、この老婆には何か特別な事情があるのだと思い、色々と深く聞くのを遠慮しました。

「あの、ずーっと何か書かれていますけど、何を書いてるんですか?ってそもそも私、ここでお話していても大丈夫ですか?」「いいのよ。詩」「あ、ありがとうございます。詩ですか…すごい…私は文章を書くのは好きなんですけど、詩はなんか難しくて、書いたことないんです……もし良かったら、少し見せてもらっても良いですか?」「どうぞ」マウは、この老婆が話を聞いているのかどうか少し心配なまま喋っていました。マウへの返答を書いて見せてくれる時は、こちらの目を見てにっこりするのに、マウが話し始めるとすぐに目線をノートに写し、自分の世界に入り込んでいるように見えるのです。

ノートをパラパラめくってみると、びっしり隙間なく文字が敷き詰められているページもあれば、たった一言が真ん中にでーんと大きく書かれているだけのページもあり、本当に詩を書いているようには見えません。でも、あるページを開いた時、マウはハッとしました。

あなたはいつかシンデレラになれると思っているの 
そんな願いは今すぐ捨てなさい 
足のサイズがぴったりだったなら 
いくらでも嘘を貫き通せるような愛なんだから 
いや そんなの愛とは呼べない 
絵本の挿絵の隅っこの ただの恋の端くれなんだから  

リミコ

「リミコさんとおっしゃるんですね」老婆は頷くと「あなたは?」と記します。「マウと言います」

「小さな頃、大好きでした。シンデレラ。好きというか、あの意地悪な継母達から、何としてもシンデレラを救い出さなければいけないと、生まれて初めて、自分の正義感と執念を感じたんです」なぜか昔の記憶が蘇り、マウは勝手に話していました。

「シンデレラは結局、待つ人でしたよね。大好きな人を待つしかなかった。待つ時間が彼女を強くしたのかもしれないけど、王子の気が変わることも、王子が迎えに行けないまま年老いてしまうことも、きっとどんな可能性だってあったんです。私は、そんな人生歩みたくない。私がシンデレラだったら、待ってなんかいない。継母を蹴り飛ばしてでも、何があっても、必ず私の方が迎えにいく。大人になってからはそんな風に考えるようになりました」

空から見ている浅い海。緑がかった岩礁が顔を出し、海面の青とのコントラストがハッと息を飲むほど美しい景色です。

「マウさんには会いたい人がいるのね」リミコはゆっくり書きました。「はい」「どんな人?」「真っ直ぐで頑張り屋さんで、心も顔も美しい、素敵な人です…力強い言葉で私の進む方向を教えてくれます…そして何よりも、笑顔がとても可愛いです」マウはゆっくりと、噛みしめるように語りました。

リミコは相変わらず、微笑んでいました。そして、またすぐに書き始めます。「そんな人、ほんとうにいるのかしら?」

「えっ」マウはわかりやすく動揺してしまいました。てっきり「幸せね」とか「良い出会いがあったのね」とか、温かい言葉を受け取れると思い込んでいましたから。「マウさんの頭の中で、そういう人を作り上げているだけなんじゃない?そんな夢みたいな人、いるわけないわ」この穏やかな老婆から出てくるあまりに辛辣な言葉に、マウは跳ね返されたように黙ってしまいました。鋭く本質を突かれた気がしました。

確かに、リミコの言っていることは正しいのかもしれない。マウは彼と、気が遠くなるくらいに長い間会えていません。彼から届くメッセージは、前向きなものばかり。彼の身を案じ、心の内側に寄り添いたいとどれほど願っても、その願いが100%彼に届くなんて無理です。彼の全てを理解しようとすることは、銀河の隅で何光年も先の星を、1つ2つ…と数えているのと一緒なのでしょう。

でも、確かに彼は生きています。笑い、泣き、たまに怒り、語り、何か覚悟を決めたという顔が、マウには見えます。彼との記憶が、今、ちょうど今ここにいるマウを形作っているのです。2人の関係を誰に何と言われようと、それはマウの中で片時も消えず、静かに燃え続けている真実なのです。

「ほんと、そうなんです。夢みたいな人。私も何度も、夢見てるんじゃないかと思いました。愛でも恋でも何でもなくて、ただ私が、彼の足元でがんじがらめに動けなくなってるだけなんじゃないかって。何度も何度も信じられなくなりました。でも、彼を見てると、時々、涙が出る。彼の言葉で、雲が晴れる。彼がいるから、生きてて良かったって。これはもう、どうしようもないんです。自分でもわからないくらい、どうしようもないことなんだと思います」

マウはこの一言一言で、自分をなぐさめました。リミコにわかってもらえなくても良いと思いました。すると、リミコはそれまでの微笑みとは一変して、真剣な眼差しになりました。

「息子に会いたい」たったこれだけ書いたノートを見せられて、マウはリミコの悲しみの匂いを嗅いだ気がしました。聞くべきかどうか迷っていると、リミコは自ら進んでペンを走らせます。「死んだの。戦争で」

「わかっているのよ。どうしようもないことなんだって。でも、何十年経っても、悲しみの向こう側なんてやって来ない。悲しみは悲しみのまま、私が旅する先々にずーっと、果てしなく広がっているの」走り書きの文字が増えていきます。

マウは何にも考えられなくなりました。リミコに何かを伝えたいのだけど、何を言ったら良いのか心底わかりません。どんな言葉を選んでも、リミコの悲しみには届かないと感じてしまいました。

海は薄い青から一変、深いコバルトブルーになっていました。悲しみも希望も勇気も、全てを連れて行ってしまうほどの、濃い青です。

リミコは、またペンを取りました。「出征前に、あの子がくれた花をもう一度見たい」「何ていう花ですか?」「わからないの。多分、名前なんてついてない、道端の花。私が名付け親になりたいくらいに綺麗だったわ」「そうですか…」「目の覚めるような鮮やかな色でね、赤でも紫でもない、とにかく濃い色をしていたの。あの子が訓練で行った、北の果ての花だったんじゃないかしら」

マウの頭を、一本の鋭い光がピンっと貫きました。そして、わずかな期待と希望がマウを勢いよく立ち上がらせました。「リミコさん、待ってて!」そう言い残して一目散に、自分の客室へ走ります。

リミコの元へ戻ってきたマウが手にしていたのは、彼からもらったガラス玉でした。息を切らし、尻尾に火がついたように急いでマウは言います。「これ!これ見て!」

椅子から立ち上がり、マウからガラス玉を受け取った瞬間、目玉がこぼれ落ちるんじゃないかというくらいに、かっと目を見開いたリミコ。小さくても凛としたその花を見つめると、手の中のそれを抱え込むように膝から崩れ落ちてしまいました。ボコボコと血管が浮く、痩せて皺だらけの手に、ぽたぽたと涙が落ちていきます。

「ありがとう」リミコの喉はいつの間にか、声を絞り出していました。「ありがとう。ありがとう。ありがとう」

「リミコさんに、これあげる」気づいたらこんなことを言っていました。「…いいのかい?」「うん」マウはガラス玉を、リミコに持っていてほしいと思いました。これは、マウと彼を繋いでなんかない。それぞれに過ごしていく、一瞬一瞬の全てが2人を繋いでいるのだ。言葉も、時間も、想いも…目に見えにくくて形のないものこそが、マウと彼の繋がりを強くしなやかにしているのだ。答えなんてひとつとして存在しないこの世界で、マウは自分なりの答えを見つけたのです。


15.白への回帰

ありがとう、ありがとう、とリミコは何度も何度もそう言って小さな涙を流し続けました。いえ…そんな…と少し戸惑いながら見守っていると、背後からマウを呼ぶ声がしました。

「マウさんですね」「えぇ、そうですけど」「あぁ良かった…僕はウパシです。あなたに会えると信じたかったけれど、どうしても信じきれませんでした。でも会えて良かった。とにかく、ミナが呼んでいるから来てほしいんです。今、アプトを救い出せる人を探してて、そしたらミナがマウさんを連れてきてって譲らないんだ」「救い出すって、アプトくんが一体どうしたの?」「迷わず行ってください。行けばわかります」「赤タオルのレスラーじゃないんだから、行く前に教えてよ!アプトくんのピンチなんでしょ?」

「何もわからないまま進み続けた方が、上手くいくこともありますよ。僕はそうでした」「いや、あ、あなたの経験は聞いてない!もう、わかった。行く!」真面目な顔してボケ倒すウパシに根負けしたマウは、状況が全く掴めないまま、どこかに連れて行かれることになりました。

「着いたらミナが案内してくれます。それでは、よろしくお願いします」ウパシは律儀に一礼して、両手でマウの肩をポンっと叩きました。

次の瞬間、マウは目を開けていられなくなりました。太陽をそのままそっくりこの世界に持ち帰ったかのような眩しさに包まれたのです。そして、足元には直径3メートルはある大きな穴が開き、身体が宙に一瞬ふんわりと浮いた後、マウはその中へ落ちていったのでした。

仰向けになってビュンビュン落ちていくマウの頭上には、見覚えのある景色が広がります。リミコと一緒にいた時、空の上から見たあの海。マルイオが熱弁している先に広がっていた虹色。ユウヒの歌声が真っ直ぐに伸び、星々の間を駆け巡った夜空。オーヴェの編み針のように、ゆっくりと過ぎていく山々の景色。そして、一匹くらい動物がいてもおかしくないのに、動物も人間もおらず、果てしなく続くだけの大草原。これまでの風景を遡っているようです。そういえば、シェリャナはどこへ行ったのだろう。船に乗せてくれたのは彼女なのだから、降りる時も見送ってくれたら良かったのに。

落ちている途中から徐々に、マウは彼との再会を想うようになりました。あんなにも会いたいと願っていたのに、いざその時がやってくると緊張で心臓が飛び出そうで、少し具合が悪くなってくる感じもします。会いたいのに、会いたくない。久しぶりに会うから「あれ?こんなブスだったか」と落胆されたら嫌だな。こんなことならいっそのこと、一生会わずに終わった方がいいのかも、なんて心にもないことを考えてしまうのです。

ものすごい速さで落ちてきたはずなのに、景色の流れが途中からスローモーションになったので、地面に着いた瞬間は痛くも痒くもありませんでした。仰向けで急降下していくマウに、下からの生ぬるい気流がかすかに当たり始めます。だんだんゆっくりと落ちていき、マウは派手に体を打ち付けることなく着地しました。といっても、ドシンというくらいの音はしましたが。

起き上がる間もなく、誰かがこちらに駆け寄ってきます。「マウ、早く早く」顔を上げると見たことも会ったこともない人が1人、かなり急いだ様子で近づいてきています。「遅いよマウ、何分待ったと思ってるの?」「…なんで私の名前を知ってるの?そしてなんで呼び捨て?」外国のお人形みたいに可愛らしい見た目なのに、この人ツッコミどころ満載だなとおかしく思いつつ、マウは立ち上がりました。

「いいからいいから早くこっちきて!」強引に手を引く相手に、もしやとマウは尋ねます。「あなたがミナ?」「うんそうだけど、それはどうでもいいから早く!」ここは真っ暗闇で何も見えませんが、ミナとマウの2人だけが、どこからともなく降り注ぐ白っぽい光に照らされています。

「待ちくたびれた挙句に全力疾走なんて…病み上がりの体にキツすぎる」ミナは独り言のようにボソッと言いました。そうか、きっとこの子もアプトのような“異能力者”で、最前線でウイルスに晒されてしまったのだな。昨日の早朝から船に叩き起こされ、ここにたどり着くまではずっとふわふわしていたマウを、流行り病がぐっと現実に引き戻しました。

ミナに手を引かれて走った先に、小さなドアが待っていました。「行って」「え?」「いいから行って」「ミナも一緒じゃないの?」「一緒でもいいんだけど、それじゃ意味なさそうだからマウだけで行って」「ちょっとよくわかんないんだけど…」「いいから早く!」

無理やり促されたマウはつい、ドアノブを握ってしまいました。船の中でウパシが言ったことがほんとうなら、自分はこれからアプトを救えるのかもしれません。いきなりやってきた責任重大な任務のために、マウはどうしてもミナに最終確認したくなりました。

「ひとつだけ教えて。私は今からどこへ行くの?」さすがのミナも、真面目に一呼吸間を置いて答えます。「アプトのところへだよ。あいつ、時々こうなっちゃうの。」「アプトくんのところ…」緊張感がさらに高まるマウに、ミナはこう言いました。「そう。アプトの心の中でもあるし、マウの現実でもあるところだよ。」

相変わらず何がなんだかよくわかりませんが、あのゴールデンパンプキン号が迎えに来た明け方の衝撃を思えば、彼に会うことくらい屁のつっぱりにもならないように思えました。それくらい、マウは今まで不思議な冒険をしてきたのです。その集大成がドアの向こうで静かに待っています。

あぁお母さん、あなたが編んだセーターを着て、私はとうとう幻の世界にまでたどり着いたよ。身体を包むライトブルーに一瞬だけ目をやり、意を決したマウはドアを開け、一歩踏み出しました。


16.静かな水色

ドアの向こうに広がっていたのは、真っ白でなにもない無の世界でした。ほんとうになにもないのです。入って数秒でも薄気味悪い感じがするのだから、何十分もいれば気がおかしくなるだろうとマウは思いました。世界にはお前ただひとりしか存在しないのだと、恐ろしい洗脳を受けそうな空間です。

そこに、アプトはいました。

夢にまでみた彼がいました。

ぼんやりとこちらを見つめています。

マウは、やっと彼に会えたのです。

「アプトくん」暴れる心臓を抑え込むのに必死の喉に、無理強いをして彼の名前を呼びます。「アプトくん」彼の耳にちゃんと届いているか不安になり、かすれた声でもう一度呼びます。彼は変わらず、ぼんやりと佇んでいます。

一歩一歩、マウは彼に近づいて行きます。床がちゃんと続いているのかわからない真っ白な中、怖さもありますが、足裏の感触を確かめるように進みます。彼の姿がだんだんと大きくなります。マウが早く行かないと、白だけの世界に溶けてしまいそうなくらい、彼の細い身体も、銀髪も、瞳も、寒々として儚げです。

「アプトくん、ごめんね。ガラス玉、あげちゃった。ずっと大切にしてたのに」思わずこんな言葉が口から出て来ます。すると彼は、こう言いました。

「君は、誰?」

雷に打たれた衝撃とは、この時のマウのために生まれた言葉だったのです。わざわざ仲間から任命されて会いに来たのに、その張本人が自分に向かって誰?と問いかけてくる。ショックを通り越してマウは笑い出しそうになりました。

わずかな望みをかけて、伝えてみることにしました。

「マウだよ。あなたのことが大好きな、マウだよ」

すると彼は、ぼんやりとした表情に少し血が通ったかのように、あぁわかったよ、という顔をしました。彼の中で、言葉にはならない大きな変化があったことを、マウは感じ取りました。

「久しぶり。やっと会えたね、マウちゃん」

アプトに名前を呼ばれた時の、この気持ち。何と言ったら良いのでしょう。それはマウにしかわからないことですが、しいて言えば「やっとここから、世界が始まる」かもしれません。

「アプトくん、ありがとう。私、アプトくんのおかげで生まれ変わったの。生まれ変わったから、ここまで来れたの。ありがとう」

「僕は君が思っているほどの素敵な男じゃないよ」彼は微笑んで言いました。笑ってなんかいない、アプトくんは真剣だ。マウは気づきました。目の奥が光っていないからです。

「アプトくんの目って、冷たいんだね。もっとメラメラ燃えていると思ってた」正直にマウは言いました。

「悩んで迷って苦しんで、時々こうやって、世界を封じ込めてしまうことがあるんだ。ねぇマウちゃん、みんな、僕にたくさん求めすぎなんだよ。僕はその全てに答えられない。全部に答えようとしたら、いつまでたっても夢なんか叶わない。いつもひとつひとつ一生懸命やっているのに、どうしてみんな、僕をあんなに簡単に評価するんだろう」マウは初めて、彼がほんとうに戦っているものを知りました。

「ほら、全然素敵な男じゃないでしょ?」彼が口元だけで笑おうとします。その姿は、巣から出たのは良いものの、1羽だけ取り残され震えている雛のようにいじらしく、健気でした。マウはそんな彼を、今すぐにでも抱きしめたくなりました。

彼の指先が、マウの指先に触れました。マウはそれを優しく握ります。がらんどうの白の中で、彼の指先だけが温かです。

「そんなの関係ない」気づけばマウは、高まる感情を抑えきれずに大声で話していました。

「人の言うことなんか気にしないで。アプトくんはアプトくんのまま、前だけ見て真っ直ぐ進んで。代わりに私が、通り過ぎて行く街並みや、森や田んぼや、立ち寄った港の人々のことを忘れないでいるから。あなたがほんとうに困った時に『あんなこともあったね。今はこんなものが見えているね。だからあなたは大丈夫』って話すから。その代わりにあなたは、私が周りばっかり気にして前が見えなくなった時、『こっちだよ』って手を引いて欲しいの。私は、アプトくんと一緒に真っ直ぐ進んで行きたいの」

ずっと言いたかったことが、やっと言えました。目の前に彼が立っているという、嘘みたいな宝物の空気を肌に纏いながら。文字ではなく声で伝えたかったことを、とうとうマウは言えたのです。途中、目の奥にこみ上げてきたものがマウの声を潤ませましたが、彼のあったかい指先を握っていたから、なんとか最後まで言えたのです。

最後の言葉をせき立てられるように言い終えると、マウは膝から崩れ落ちしゃがみこんでしまいました。涙が後から後からとめどなくこぼれ落ち、視界がぼやけます。指先を握ったままだったので、バンザイしているようなおかしな格好で、顔を伏せ、マウはえーんえんと声を出して泣きました。セーターの淡いブルーが、水に浸され溶けていくように見えました。

「泣かないで」彼は静かに言うと、マウの両手を自分の両手でそっと包み込み、自分もしゃがみました。「君がどんなに強く僕のことを想っていてくれたのか、ちゃんとわかったよ。今までもわかっていたけれど、君のこと、わかっているつもりだったんだね。こんなに遠くまで来てくれてありがとう、マウちゃん」

するとどうでしょう。雪が一気に溶けていくように、マウの足元が白から緑に変わっていきます。驚いて顔をあげ、立ち上がります。足元だけでなく一面いっぱい、どこもかしこも、閉ざされた白からほんとうの色に戻っていくのです。音もなく、静かに変わっていく景色。土の色、木の色、水の色。アプトの心のどこかに残されていた、ありのままの自然が戻ってくるのです。

そこは大きな湖でした。マウの美しい涙が、湖を呼び覚ましたのです。

何が起きたのかわからず、呆然とするマウにアプトは言います。「綺麗だよ」「うん…こんなに綺麗な湖、初めて見た」

するとアプトは少し困ったように、目尻に皺を寄せて笑いました。「セーター似合ってるね。その色好きだな。マウちゃんは優しいから、水色がよく似合う」「お母さんが編んだの」「すごいね!俺にも編んでほしい」


今でもアプトは変わらず、汚れた空気を綺麗にするという素敵な仕事をしています。一方でマウは、水を生み出せたのはあの時だけでした。それでも2人はそれぞれに、夢を見つけ、叶えながら毎日を過ごしています。




【写真掲載のご協力】scoop kawamura 様


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