タコツボに垂れる蜘蛛の縷

 相変わらず頭がよろしくてらっしゃるリベラルのお歴々が、その鋭い観察力で「コミュニティーノートはネトウヨ!」「コミュニティーノートをつけているのはDappi(的組織)」と噴け上がってらっしゃるので憐憫の情を禁じ得ません。何も言わずにいる隣のオトモダチ、諫めてあげたらどうですか?

 まあ、コミュニティーノート作成者も左右の比率に応じて存在するのでしょうし、コミュニティーノートの賛否もどうやら多数決っぽい感じもあって、「『ファクトチェック』の正しさは誰がどう保証するのか」というのは導入当初から懸念を申し上げていたところではありますが、それにしたって根拠のない願望・お気持ち・陰謀論にコミュニティーノートが貼られるのは、いくら左右に非対称があるとはいえ自業自得と申し上げざるを得ません。

 偉そうな学者は「分断」などと抜かしますが、なんのことはない、大抵はただのタコツボじゃないですか。しかも自軍が不利なときは「分断を煽るな」と言い募り、有利なら「常識に従え」のような振る舞いをする。卑しいですね。
 社会が「多様な価値観」とやらを掲げた以上、イシューごとのタコツボ化は避けられないでしょう。それでも落とし所を探る(ために議論をする)のが民主主義における言論の役目なんですから、せめて事実認定については立場に関係なく共有されるべき、あるいは虚説風説の流布は戒められるべき、という前提の下、タコツボをぶち抜く「コミュニティーノート」は、賛同されこそすれ否定される要素なんてないのではないでしょうか。「コミュニティーノート側の言説のファクトチェックの妥当性」という懸念を除けば。
 而して左派のコミュニティーノート否定は、コミュニティーノート自体の言い分の是非ではなく、「自分たちにだけコミュニティーノートが貼られる」という被害妄想に終始しているかのように思えます。いや、原口とかナイフばっかり晒されて流れてくるからかもしれんけどさ。

 原口議員に関してはもう頭Zの限界サヨクとしか言いようがなく、早くれいわに追放しろよと思うんですが、それは扨措きもうちょっとファクトに基づく対話を考えられんものなんでしょうか。「仲間内でのスローガン(Xの公開ポストをそれに含めていいのか知らんけど)ならファクトなんていらない」というなら、例えば「わが国は天皇を中心とした神の国ぞ」の何がいけなかったのかという話になりますが、そもそも原口氏のポストはそういう性質のものでしたっけ? 事実性の危ういスプートニクとかそういうところを引用・紹介して自説を補強するのは、「仲間内のスローガン」というレベルの話ではないでしょう? そもそもそれ以前の事実認定の話です。
 「仲間内でなら、事実でない話を事実だと前提して語っても良いか?」となると若干センシティブな話になってきますが、完全に閉鎖された場での話なら兎も角、少なくとも国会議員が内省外交について公に議論をするにあたっては「ダメに決まってんだろ」と言うよりなくないですか? 

 コミュニティーノートは、すっかり耄碌しきった原口議員にあって、タコツボから救い出すために垂らされた『蜘蛛の縷』であるかのように私には見えます。そんなコミュニティーノートに下から火をつけて「燃やしてやった!」と喜ぶような同氏界隈の態度は理解に苦しみます。というよりもはや彼岸に達してしまったとでも言うべきでしょうか。
 そんな人たちがことあるごとに「対話」などと抜かす不遜についてもまた頭を悩まされますが、これはもう他山の石として自分達の言動を省みることぐらいしかできなそうです。合掌。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?