社会学よどこへ行く

 正直なところ、社会学という学問については辞書的な知識しかありません。特に学んだことも、専門書を読み込んだわけでもありません。しかし「社会学者」なる人達がメディアで珍妙なことを吹聴していたことは存じておりました。

 然るにSNS時代となって、「社会学者」なる人達が、陰に日向に珍妙な思想集団を支援し、言わばその裏書きというかケツ持ちとなっていることに違和感を覚えました。社会学が、人権や民主主義思想の至らない実社会に対して、それらに依拠した「社会のカイゼン」を提言しようとしていることは想像に難くないのですが、どうにも一部「社会学者」の提言に依拠して社会に手を加えようと叫んでいる集団が、人権や民主主義に依拠しているとは思いがたい、もっと言えばそれらを理解しているとすら思いがたい振る舞いをし、また「社会学者」達もそれを掣肘するそぶりも感じられません。

 既に何度か述べていますが、ポリティカルコレクトネス(以下ポリコレ)は、外に対してはキャンセリングやノープラットフォーミングなど、政敵を社会から除外するために用いられ、内に向けてはヘゲモニー闘争の道具として使われてつつあります。民主主義における法は抽象性と全称性を兼ね備えていなければならず、またそれらは然るべき手続きによって規定されるべきものであるはずです。ところが彼らの主張する社会正義は、上記のように告発対象を社会から追放すべき、あるいは発言権を無効化するという強い「暴力」であるにも関わらず、アドホックかつ党派的であり、その適用基準は神学的とも言える無内容で、「ポリコレ棍棒」の名の通り「闘争の道具」としての意味しか持っていないようにすら思えます。

 果たして、こうした社会正義の「闘争の道具」化は、「社会学者」がしばしば見せる闘争指向によるものであることは想像に難くありません。それがマルキシズムの敗北による共産主義者の難民化・潜伏化によるものなのか、社会学が元来目的としていたものなのかは存じませんが、民主主義のプロセスであるところの「説得と了承」ではなく、一足飛びに「反対者の排除」という闘争形態を取る様が、今はなき(今なお現存する)収容所国家群のそれを想起させると考えるのは私だけではありますまい。
 ネットにおいて、知的訓練の不自由な蛮族達は、わかりやすい形で不満を吹き込まれ、棍棒を与えられ使い方を教わり、「敵」に襲いかかります。ボス猿は燃やす対象と罪状を挙げるだけで、「有罪」の立証はしませんから、蛮族は「一人一派」の名の下に、思いつきの斬奸状を高らかに宣言し燃やしにかかります。しかし所詮は知的訓練の不自由な人達ですから、その論理は「どこかで誰かがやっていた糾弾」を雑に真似ただけであり、場当たりでデタラメなので、すぐに破綻を来します。愚か者達は守られることなく切り捨てられているように見えます。文革かな?

 果たしてこうした闘争指向は、元々が左翼の看板の掛け替えにすぎないリベラルには親和的だったのでしょうが、もはや自家中毒に陥っている感があります。ポリコレ闘争では異を唱える者は同罪とされますし、傍観も共犯と同じ扱いをされます。怒りを植え付けられた、主観的には「意識の高い」誰かが、ムカツいた目の前の誰かを殴るためにぞんざいにぶちあげたポリコレ命題について、内心では疑問に思いつつも、反対も沈黙も許されず、賛成せざるを得ない状況が出来します。つまるところそれは全体主義であり恐怖支配に他ならないのですが、主観的には正義であるところのポリコレ蛮族にその自覚はなく、あるいは「正義の下の全体主義のどこが悪い」程度の認識でしかありません。

 90年代、ある「社会学者」が「終わりなき日常を生きろ」的な物言いとともに、当時流行していた「援助交際」という名の下着販売や少女売春を、瓦解しつつあった(とされた)既存道徳・既存共同体から乖離した存在達の自己決定の在り方として称揚していました。(個人的には、これも無責任な闘争指向の現れだったように思います。)ところが、いま別の「社会学者」が、少女売春をしてきた人達に「私たちは買われた」というフレーズで、性的搾取という被害者意識を植え付けることに躍起になっています。既存道徳や共同体の枠組みがこの30年でいくばくか変化しているとはいえ、(少女)売春の意味や道徳的位置づけが、「性の自己決定権」から「被害性」に一八〇度変わるほどのものだったでしょうか。これではマッチポンプではないですか。

 多くの社会学者は真摯に学問をしており、無害どころか有益な研究をしているというのは大前提ですが、一部の「闘争のために社会学をしている学者」が、「社会学」印の社会規範を、その重さにさしたる自覚もなく、だが全体主義的に(より正確には全体主義国の首長的態度で)植え付けようとしています。まあ、それも学問の自由といえば自由でしょうが、それならせめて党派制を排して、抽象的・普遍的なルールなり当為を、対話と了承を重視しながら広めていっていただきたいものです。それができなければ、まず民主主義を否定して哲人支配を謳うところから初めてはいかがでしょう。

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