Bach

白い多角形の空間は薄暗いが、格子状に区切られた窓が囲む壁にいくつかついているので、黒い恰好をしている男の顔でもよく見えた。彼は苦悩しているような、苦悩を表現しているような、そんな動きで手首を中心に体を動かす。手首を動かすと、弓は自由に動く。その動作は何億回と繰り返されているからだろう、普段目にしない人間の動きをしていた。不気味だが、そこには美しさが混在している。迷いのない、安定した響き。ぐらつくにしたって、故意のぐらつきなのだ。指の先から足のつま先まで、思うがままに動かすバレリーナのように、彼の弓が弦を引く音にすら、意識が宿っている。

例えば、一度弓を下ろしたところで、この響きは生まれない。それがつながって、前後の流れの中で引かれるからこそ、人はその体感したことのない奇妙な体験に心を動かされる。

彼の意識はどこにあるのか。最後に弓を下ろした瞬間、彼の表情に、人間の色が戻ってくる。それはさっきまで、意識がどこかに行っていたことを示すようだが、その意識は、意思はどこにあったのか?

彼はヴァイオリンと一つになっているのだろうか。溶け合い、一体化する。それは音になり、目の前で目に涙をためながら聞いている、年老いた女性も同じだろうか。それならば、彼女も、ヴァイオリンも、バイオリン弾きも一体化しているはずだ。空気の振動が身体を揺さぶり、耳だけでなく、皮膚を揺らし、内臓を揺らし、呼吸をし、自ら歌っているような、究極の感覚。ヴァイオリンの弦は背筋に見立てられ、僕らは時々自分を引っ張っていかれ、導かれているように思える。

確かに僕らは一体化しようとしている。他ならぬ高音の鳴る弦は、音を発散させているというより、聴衆をひきつける、引力が働いているようにすら思える。意識を引っ張られそうなのだ。僕らは身体があることを忘れ、ひと時の心地よい音色に身をゆだねる…。そうだ、身をゆだねている。どうしても、僕らは身体から出ることができないのだ。

身体から出ようと、これ以上ないくらいの一体感を、Bachは作ろうとしているのかもしれない。連続的に奏でられ、変奏し、変装を繰り返す彼の音楽は、しかし、終わりが見えない。寄せては返す波のようではなく、林の中のせせらぎである。一定ではなく、連続的に。しかし、そこには人の、理性的な響きがある。偶然を許さない、洗練された響きを必要とする音楽でもあるのだ。理性的なのだ。理性的な美しさ。せせらぎではない。

理性的な美しさは、一体となることを拒む。あくまでも意識がある。極限まで洗練された意識。意識を訓練し続けた無意識によって、ヴァイオリン弾きの彼だけが何者かに身をゆだねているようにも見える。

Bachの音楽は、波にのまれる海のような一体感を作らない。そこにはせせらぎのように絶え間なく流れる音や、雨のように埋め尽くす音楽であるようで、それは人の声、でもない、神の声である。絶対にたどりつきも、一体になることもできない神の、しかし、聞こえてくる天からの贈り物。無限に隔てられた二つの間にはしかし、声が聞こえ、格子状の窓からかすかに光を寄せる。僕らはそれを見て感動し、切なさを覚える。自然との一体を避け、どこか距離を開け、美しい景色を遠くから眺めているような、そんな感覚である。

年老いた女性は、目に涙を浮かべ、時々、ヴァイオリン弾きに焦点を合わせる。彼が弾いているという事実を確認するように。ここは天国ではない、それを確信するように、涙を一つ落とした。


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