いつも不完全な現実で

例えば文章を書くとき、頭の中に浮かんでいる構想がそのまま文章になって、完全に納得のいくものが書けるかというと、そんなことはほとんどありえいないだろう。頭の中の理想と、身体の外に出来上がる現実は、いつも無限の距離が開いている。

現実は完成しない。あるいは、頭の中はいくら完璧でも、それは絶対に外に連れ出せない。


しかし、僕らはどうやったって、現実を生きているのであって、身体があるのであって、頭の中に生きているわけではない。だから、頭の中にいるのはほどほどにして、僕らは外に出ながら、身体を使いながら行動し、頭の中に戻っても、外に出て生きなくてはならない。文章を書くことはは生きることの一部だと思う。

最近、カメラを始めた。一眼レフのデジカメ。目で見たものを、スマホのカメラで撮っていたのがきっかけで、風景や静物や生き物を写真い残していた。しかし、目で見たものは、決して、撮れた写真と一致しなかった。どれだけカメラの性能がよくなっても、一度見た風景は、二度よ戻ってこない。いざ、一眼レフカメラで写真を撮っても、きれいな夕焼けを、カワイイ猫の奇跡の一瞬を写真に収めることはできないのだ。写真は真実を写せない。

しかしながら、凡そこんな反論があることだろう、人間の目が移し、脳に送りこまれた情報よりも、高度な技術によって、物理法則を利用した高性能なカメラのレンズの方が、データ変換の方が、より現実を真に映しているのではないかと。

僕はそうは思わない。まず、結局、データが移している写真を見るのは、一度原風景を見たのと同じ目であるということ。それだけでも、原風景を見たものと写真を見る感覚のどちらがリアルかを考えればわかる物であるけれど、それより言えることは、最初に目にしたときの感覚、感情、感動の次に、カメラを構えるし、カメラの映す映像は、人間がとらえられる目、脳の構造に比較にならないほど一瞬をとらえるので、そもそ見えない、というのがある。だとすれば、僕らはその風景をほかならぬ自分の、さらにその一瞬しか経験することができない。

じゃあ、写真を上手くとるには?僕は、それは今まで見てきた感覚とは、振り切らなければらないと思う。それまでの感覚から変わって、カメラの目で見なくてはならない、と思う。自分が思っている理想の風景を、写真は写してはくれない。何度も写真を撮って、経験したうえで、自分の脳をカメラ的に使いこなす。そうすると、日常の風景でカメラで今この風景にシャッターを切ると、こんな映像ができるだろうな、上手くとるにはこんな感じだなと、脳を書き換えること。理想は、常に現実と乖離する。

それでもなお、写真はイメージ通りできない。だからこそ、写真は撮り続けられる。だからこそ、現実は面白い。欲望が満足できないからこそ、現実はいつも、不完全だからこそ、生きていく甲斐があるという物だ。

そういった意味で、僕は頭の中の理想は大事にすべきだと思う。なぜか、理想がまずないと、現実がないからだ。現実をただ生きるのではない。理想から失敗し、挫折すること。それが人を作っていく。それこそ、創造的なものだと僕は思う。

現実は常に不完全だ。しかし、不完全で仮に固定された状態で世界はできている。その仮固定の足場を崩すと、その底には何もない。世界の基盤は大きな穴でできているだろう。今、僕らが基盤している何かは、偶然の上に立っている。それはいつ崩れても、おかしくはならない。


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