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自分と似た人に興味を持つ?

人は、自分と似た人に興味や関心を持つのだろうか。それとも、自分とは反対の性質を持つ人に、だろうか。

結論から言ってしまえば、どんな人の中にも多種多様な性質がある。だから条件によっては、どんな人にも自分と似た性質があらわれることがあるだろうし、出てこないことだってある。元も子もないが、一概に自分と似ているか似ていないかなどとは判断できない。

それでも、おそらくだが、人は自分と似たものを相手に感じた時に、興味や関心を(より強く)持つのではないだろうか。
もちろん、他の要因もあり得るだろうが……。
ああ、似てるなあと思えたら、どんどん知りたくなって、私なんかの場合、その上でどこまでが似ていて、どこからが違うのかを探してしまう。

本当は、そんなのは単なる幻想でしかない。

だって、自分の目の前にあらわれる、その人のその性質は、今のこの条件の中から、たまたまあらわれたものに過ぎないのだから。
それでも人(いや、私)はバカで、自分と似ているなんて思うと、どんどん突き進んでしまう。
そして、本当は最初からわかりきったことなのだが、いや、その時にはバカになっていてわからないのかもしれないが、自分と違うものを感じたときに引いたり、離れたりしてしまうことも少なくない。

自分と似ていると思えるのは、どんな時だろう?

タイミングにもよるだろう。
自分が落ち込んでいる時には、弱々しく、女々しく、ダサい自分がいて、その時にたまたまそういう性質が見て取れる相手を見て、まるで自分を見るかのようだと思うのかもしれない。
調子のいい時もまたしかり、である。

それでも、私は信じている。
自分と似たような人がいるということを。

それは、決してたまたまあらわれるような性質ではなく、もう根本的なシステムや構造みたいなもの、要するに考え方や傷ついてしまうポイント、何かを見た時にどう感じるか、などなど、そういうものがあるはずだ。

もちろん、時間が経ち、それが変化する場合もある。それでも、その瞬間には、ある程度おなじような〈もの〉を目の前の相手に見出しているのではないか。

私はそういう瞬間が好きだし、それが刹那的であったとしても、というか刹那的なものであろう、ああ、繋がっているなと思える。

もうまったく支離滅裂な文章だが、私は普段、このように取り留めのないことをひたすら考えている。

そうして一日が終わる。一カ月が終わる。一年が終わる。一生も終わるのだろうか。

ずっとずっと問い続け、答えなんて出ないほうがいいと思っている。

でもだからって、詰められるはずのことを考えないで、そのまま放置しておくのはよくない。ここは課題である。
ちゃんとしっかりと論理立てて考え、整理していくという努力は必要だろう。

もう本当に、なんのこっちゃわからないものになってしまった。
ヤバい時間に書いているから、仕方ないとしよう。

本当はこんなことが書きたいんじゃなかった。


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