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ジャッジせずに生きられるか──多様性を考える

「チームの強みというのは、端的にいえば多様性です。」山極寿一
(『「言葉」が暴走する時代の処世術』127頁)

誰をも否定しない、もちろん自分のことも否定しない。
どんなに嫌な奴だって生きていていいとしないと、自分なんか秒で殺される。

「汝、殺すなかれ」

なぜジャッジをするのだろうか。
それは本能、生きる術の一つなのか。
私たちは、毎瞬間決定している。でなければ、次の一歩が出ないからだ。めんどうくさいけど、決めないと生きられない。
なんの選択もしないのであれば、そのまま一歩も動かずに「死ぬ」だけだ。

だけど選択するってことは、何かや誰かを殺すってことでしょう。
ほんとうに“やさしい”なら、あらゆる物事に「無関心」なはずだ。

私は、まだまだ無関心にはなれない。
だから最低限、いろんなものを殺して生きていると自覚するしかないんだ。責任と覚悟を持って、毎回ジャッジするんだ。
ジャッジすることが、どれだけ差別的なことだろうと、とにかくその責めを負って進む。

「一生懸命、人間やってんだよな。」

朝起きる/起きない、歩くのに右足/左足から出す、歯を磨く/磨かない……。

どのようにして多様なものが生まれるのだろうか。
その選択の連続が、いまの私をつくったとすれば、ジャッジするほど、私は他と違ってくる。

みんな違って、みんないい、のか。
たとえば、その人が自分で決めたのなら殺人さえも認めるべきだ。
リベラルってそういうことでしょう。

「なぜ人を殺してはいけないか」
「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、そうするべきだ」

みんながすべてをジャッジしなければ、まったく同じになる。多様でなくなる。
それは死だし、天国だ。
リベラルの完成だ。

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