「赤信号を渡れ!」構想案

たとえば、自分が話している言葉だってもともと自分のものでなく、他から譲り受けたものだとして、はたして私たち一人ひとりに自分の言葉なるものをつくることはできるのか。
仮にできるのなら、それをやる必要はあるのか。

まずは自分が何によってどういう風に規定されているかを、またどんなルールに守られているかを知ることからだ。自分がどんな環境(時間や空間、習慣、ルール)にいるかを知る。

いま自分がどんな枠の中にいるかを知る。
決して「枠から出ろ!」というわけではない。いや、「赤信号を渡れ!」はそういう意味になってしまうな。

常識と習慣に規定されてはならない。

かつて吉本隆明は「自分の足で立つ」と言ったが、はたして自分の足で立つなんてことが人間にできるのか。
お隣さんを見てみて、動物や植物は立てているのか。

このまま枠を取っ払っていくと、どうなるんだろう。枠をはずすことで、赤ちゃんに近づいていく。
大人になる過程で身につけたその枠は足枷にもなるが、この社会では自分を守ってもくれる。
なんでもなくせばいいってもんじゃない。要注意だ!
生きている意味なんてないはずだが、唯一あるとしたら、私はわたしになるために生きているのか。
そもそも、私はわたしにならなければならないのか。そんなわけない。仮に私がわたしであった場合(これをどうやって証明するのか、わかるのか)、私はわたしになれているのか。イコールなのか。────────────────

真に自由な意志なんてない。
そもそも、ほとんどが「勘違い」で進んでいる。たまたまそうなっているだけだ。
人間だけでなく動植物もそうなのだろうか。
一つわかるのは、人間はそこに傲慢がある。「正しい」「辻褄が合っている」「因果関係がある」と思えないと進めないぶっている。
ぜんぜん傲慢があることは悪いことじゃない。ただ前提として、傲慢があることを知らなければならない。

それらはたしかに勘違いかもしれないが、わたしたちはそうやって進んでいる。
自然の法則(神)に従って動くとき、そのすべてがどの瞬間も整っている。
この宇宙は、私たちの目に見えない、感じられないスピードで破壊と創造を繰り返している。
そして、どの瞬間もそのすべてが独立していて、同時にすべてがつながりをもつ。

自分以外のことはわからないが、宇宙はそのまんま自分である。
もし宇宙のことがわかるというのなら、自分以外のこともわかるということなのだろうか。
他のものとの繋がりはあるが、それらがわかるわけではないように思う。

結局、サッカーのヘッドと同じで、相手はほとんど関係なく、落ちてくるボールに合わせて、自分の最高到達地点で迎えることしかできない。
その連続でやっとピカピカに生きていられる。
そんな気がする。

うぅー、これをまとめるのはキツいな。
「赤信号を渡れ!」を完成させたい。
いまの自分のマックスで書いてみたい。
完成したら、新書で出したい。
内容は、こりゃ自己啓発だな。

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