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「愛がない」──そんなに目の前の喧嘩に勝ちたいか?

19の頃から、こう感情が爆発すると、書きたくなって、とにかく書きなぐった。それは今でも変わらない。
だけど、変わったことが一つある。
前までは、怒りで書いていた。
だけど今は、かなしくて書いている。
もうどうしようもなく、かなしくて書くのだ。

自分のことをわかってくれない相手への怒りではなく、それ以前の問題、意見を交わし、改善策を考えることを当然と思わず、ただ目の前の喧嘩に勝ちたいだけの相手への諦めだ。
それが、かなしくて仕方がない。
どうにもできない。ただ、猫をかぶって謝罪するだけ。相手の気がおさまれば、それでいい。
そういう風になることのかなしさ、苦しみで書くようになった。

私は、話し合う気も、また相手がどういう風に思ってその言動を選んだのかを想像しない人間を、傲慢にも、「愛がない」と表現する。
愛のない相手とは何もできない。
結局、そういう人は自分のことがいちばん大事だと思っているからだ。
そんなに、ただただ目の前の喧嘩に勝ちたいか?

ここで私は、カッコつけて書いているかもしれない。嘘を書いているかもしれない。
ただ私は、単なる理念なのかもしれないけど、一応、どんな相手であろうと、お互いの価値観や物事の感じ方、捉え方は違うだろうから、相手の言動を観察したり、または相手と話し合ったりして、それを理解したいと思う。
もちろん、どんなに話し合っても理解できないことだってある。それはそれで仕方がない。
だけど、話し合う前に、話が通じないと相手を切ってしまうことほど、もったいないことはないと思う。

私の中では、相手を意図的に陥れようとしない限り、セーフだ。
なぜ多くは、その理由も、相手の思考システムも何もかもを想像する前に、怒れるのだろうか。ブチギレられるのだろうか。
単に自分が不快だと怒る人がいる。
それが、わからない。
何を怒ることがあるのだろうか。
相手が完全に悪意に満ちていて、自分を苦しめようと危害を加えてくるのであれば、その確信(証拠)を得ていれば、怒ることもあろう。
しかし、そんなことを調べもせず、ただ自分が不快だからと怒る人がいる。
私はそういう人たちがわからない。

でも、そういうわからない相手のことを理解することが大事だ。こちらに悪意がなくても、その人にとって不快だと怒る人と上手くやっていかなくてはならないんだ。
本当にそうなのか。


つづく…

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