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人に気を遣って生きてきた

いろんな人に気を遣ってきた。たとえば自分が何かをするわけでもなく、ただ存在するだけで嫌だと思う人がいるのだと思って生きてきた。それは今も変わらない。そして、それは事実だと思う。もちろん、気にしすぎという可能性もある。だけれども、だからって気にしなくていいという問題ではないと思っている。私はこう思ってしまうのだから仕方がない。

『釜ケ崎と福音』の著者である本田哲郎神父の受け売りだが、「自らの加害者性に気づく」ことが私にとっては最も大事なことだ。

存在しているだけで、誰かの迷惑になっている。でもね、そんなに卑下することはない。誰だって何かしら他人に迷惑をかけながら生きているからだ。ただ私は、それを最小限にしたいと思っている。だから、気にするのだ。
でも、よく言われることが、意外と相手がそんなことを気にしていないことも多い。そうなると、単なるひとりよがりなのかもしれない。人に迷惑をかけたっていいんだ。みんな、持ちつ持たれつでやっているんだ。本当にそうなのか。いや、そうなのだろう。

あんまり人に対して気を遣わなくなると、とっても楽になる。私にとっては最初から、たとえ家族でさえも「関係のない」人たちだ。リミッターを外してしまうと、途端にひとりになる。ひとりはいいことだ。ひとりというのは、単に孤独というわけではない。
この宇宙を感じることができれば、みんなひとりだし、同時にみんな繋がっている。ここらあたりは仏教(特にベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師)や福岡伸一先生の「動的平衡」の影響だろう。または、『嫌われる勇気』のアドラー哲学の影響か。

ひとりだ。だけれど、とっても自由だ。
最近読んだサルトルの『嘔吐』にもインスパイアされている。自由だがしかし、これはいくぶん死に似ている、のかもしれない。

もう少しちょうどよくできないものか。
嫌われることが恐ろしいのか。それとも、愛ゆえか。わからない。嫌われることがこわいわけではない。ただ目の前の人に不快感をなるべくなら与えたくない。それは、今まで生きてきて他人に不快感を感じてきたからかもしれない。でも、マックスまで考えて行動しても、どうやったってうまくいかない。こぼれ落ちる部分というものは必ず存在する。ある程度、諦めも必要なんだろう。それでも、私は頑張りたい。

それは、私は他人を救いたいのではなく、おそらく自分を救いたいからなんだと思う。救うというと、なんだかたいそうな感じがして嫌なのだけれど、やっぱり私は私を救いたいんだと思う。

人と会ってしまうと、どうしたって気を遣ってしまう。はたしてその気の遣い方が正しいのかは、もうわからない。直接、その相手に聞く他ないからだ。この10年間、私はそういうことを聞いてきた。もちろん、ある程度、信頼関係を構築してからだが…。それでも、わからない。初対面はとにかく難しい。お互いのルールが違いすぎるからだ。どれほど気を遣っても、それこそこぼれ落ちる部分しかないとさえ感じる。

そうなると、まったく気を遣わなくとも結果は同じなのではないかとも思えてきた。あとは、やっぱり意外と他人は自分なんて見ていない。みんな、自分のことで精一杯だからだ。
でも、私は違う。だから、仮に私が私に遭遇したら、それはそれは最大限に気を遣わなくてはならなくなる。私は私に嫌われたくないし、私は私をがっかりさせたくないからだ。同時に、これは甘えだが、なんにも気を遣わない私を受け入れてほしいとも思う。

ぐっちゃぐちゃになってしまった。
混乱しているのかもしれない。年末。

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