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愛され女子の”愛され”にモヤる

数か月ほど前。ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』を観た私は、自分でもドン引きするくらい傷付いていた。

もともと監督のファンで、今回の作品も(傷付いたことは脇に置いておくと)凄く好みで、恐らく今年のベスト10には入るだろうなと思う。それでも鑑賞中、途中で何度も涙が出てしまった。感動したとか、心が震えたとかではない。本当にシンプルに傷付いてしまったのだ。

ネタバレを避けつつ説明すると、『哀れなるものたち』でエマ・ストーン演じる主人公ベラは、とてもチャーミングかつ魅力的な女性で、次から次へと男性から求愛される。
ある時ベラは、父親によって隔離されていた家を飛び出す。婚約していた優しい男性を捨て、別の男と駆け落ちのようにして外の世界へ飛び出して行くのだ。

外の世界でも、ベラは行く先々で男性達から求められる。そしてどの男性もベラを自分の『所有物』にしようとする。所有者が変わっていく中でベラは、自分が男性から本当はどんな扱いを受けているか、彼らにとってどんな役割を強いられているのかを学んでいく。

”楽しいから” ”嬉しいから”
”これは自分の意思だから”
……と、選び取っていたはずのものが、実は知らないうちにめちゃくちゃ搾取されていた。それに気づいたベラは傷付き、その都度自分の考えを”改善”していく。男性との向かい方が変わっていくのだ。

私が盛大に傷付いてしまった話に戻る。
私はこの「自分で選んでいたつもりが、実は知らないうちに搾取されていた」という部分に、鑑賞中リアルタイムで刺された。お前はどうだったか?と突きつけられ、我が身を振り返り、「搾取……確かに、あったかもなあ」という結論に至り、傷付いてしまった。

「愛され女子」の「愛され」にモヤる現象は、この時の鑑賞後の感覚に似ている。
「愛され」という言葉にはどことなく決定権が相手にあるような印象を受ける。選ばれ待ち。所有物足りうる存在になれという押し付け感。そこに個性はない、都合のいい存在。

一方で「愛され」には、相手よりも”自分”にベクトルが向いているような自意識の高さも感じる。服や物を買うにしても「これを身に付ければ愛されるかどうか」が基準になる。結局それは相手を見ていなくて、自分中心にしか考えられていない感じもする。

映画でベラはたくさん傷付き、絶望し、そして自覚していく。
最終的に彼女は、誰かの”所有物”になることに明確に『NO』を表明する。
「私の身体も心も自分のものであり、自由に決定することができる」、
「自分を改善したい」
そんなベラの言葉に、私はとても救われた。
これから私も、ベラのように改善していくことができるだろうか。