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昭和JRPGと令和オープンワールド

日本の民衆は昭和の古臭いルールブックを平成の30年間をかけて焚書した。そして時は令和となり、日本にも欧米のような個人が自由意思の元で、たくさんの選択肢の中から自分の生き方を選ぶことができるリベラル社会が到来した。

しかし何故か喜ばしいはずのこの時代の変化に対して苦しんでいる人が多くみられる。なぜか?

情報を取捨選択し、これだというもの見つけて自分で責任持って決める、という”決断コスト”を支払える能力が生きるために新たに必須となったからである。決断コストを支払えない人間にとって、何もかもが自由であるが何もかも自分で決断しなければならない令和自由社会は非常に生きづらい時代となってしまっているだ。

人生かくあるべし、という生き方のルールがありそれが皆に共有されていた昭和社会は、決断コストを社会に丸投げ出来てた時代ともいえる。仕事は終身雇用と年功序列、結婚は見合い婚や職場婚、結婚後は男は働き女は専業主婦、昭和は凄まじいまでの決断コスト肩代わり社会であり、人は決断コストに頭を悩ませることなく生きていける時代であった。必要なのは”社会とはそういうものだ”と言って世間様の指示に従う諦観力と、社会のルールを守る多少の忍耐力のみである。

令和の自由の海で溺れている意志薄弱な人の中には昭和の方が生きやすかった人も多くいるであろう。昭和に人々を支配した世間様の強さの源は決断コストを肩代わりしてくれるところにあった。自分で判断、決断して自由に行きたい人と、ルールを守ってそれに従っていきたい人、日本は後者の方が多いように感じる。

昭和と令和の違いは、レールの上を走っているだけで物語が進みそれなりな楽しませてくれたジャパンRPGと、物語が始まった瞬間から何もするのも自由な欧米オープルワールドゲームの違いに似ている。昭和JRPGのように指示を出してくれる世間様がいなくなった世界で、どう生きて良いのかわからなくなっている人が多い。

以前のnoteで日本や中国など極東モンゴロイド国家は、平時には勤勉で優秀だがピンチになればなるほどおかしくなっていくことを書いた。その理由の大きな部分が決断力が不足していることが原因だ。ピンチになると決断コストが高いことは何も決められず、結果として責任の所在を歴史や社会の空気に転化して集団ヒステリーを起こしてしまう。その結果が中華4000年の歴史と一億総火の玉である。ピンチになるほどアングロサクソンたちが無双するのも彼らが高い判断力と決断力を持っているからである。平時はその旺盛過ぎる実行力で失敗することも多々あるが、彼らはそれゆえに失敗することに慣れている。日本はとにかくピンチの時はアングロサクソンの背中に乗るべきだ。

決断力がなく日ごろから物事を決めることから逃げている人々ほど、失敗に慣れておらず失敗することを禁忌する傾向が強い。そのため決断して失敗した者を苛烈に非難しがちである。それにより、本来なら決断力のある人達も決めることにしり込みしてしまう。決められない人が過半数を超えた組織は誰も何も決められないまま時が経ち、なるようになることを待つしかなくなってしまう。いつまでもFAXから卒業できないJTCや、明らかに存続不能な社会保障制度や年金制度を変える決断ができない日本国家そのものもである。少子化や社会保障費の問題に日本が取り組むのはロスジェネ世代が高齢者となり社会を押し潰そうとするまさにその時になるまで来ないであろう。

そして恐ろしいことに、決断力は決断コストから逃げれば逃げるほど弱まっていく。決断から逃げ続けた人々はどうなっていくのか?

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