|ものについて物思う
ものという言葉からまず真っ先に思い浮かんでくるのは物質です。
本やパソコン、机や壁、小さなビーズから大きな旅客機 etc.
ぱっと視界に入ってくるだけでも数えきれないくらい様々な種類の物質があります。
改めて意識してみると普段こんなにも物質に囲まれて生活しているのかと驚きます。
忘れ物、洗濯物、預かり物、物置なども物質としての物を表す言葉です。
物質を究極までバラバラに分解していくと最終的に素粒子となりますが、素粒子は物質をひたすら小さくした物体といったようなイメージです。
ところがヌーソロジーでは素粒子は小さな物体ではなく巨大な空間であり、現存在である人間の意識の本質のようなものであり、また素粒子は私たちの無意識の構造であるといったものになります。
なかなかイメージが掴みづらいと思いますが、ヌーソロジーの提唱者である半田さんはよく「私たちはものである」と言っています。
かなりぶっとんだ感じがしますが、これは素粒子を対象物としてみないということでもあるんですよね。
日本語は「もの」を単なる物質として捉えていません。
正直者、馬鹿者、お調子者、幸せ者といったように人の性質や状態を表したり、読みは違いますが忍者、医者、行者、芸者なども特定の行為に関わる人を表しており、
動物、植物、生物といった生命も物という字で表します。
「もの」には何か形のないぼんやりとした概念も含まれます。
もの事を考えるといった時のものは形のないものです。もの忘れが酷いといった場合にはものは記憶です。
ものという言葉には目に見える形のある物質や形のない意識や記憶、感情といったもの、目に見えるものと目に見えないものの両方を併せ持ったものであったりと、あらゆるものが含まれています。
物悲しい、もの寂しい、物足りない、もののあはれといった言葉はその場にある情景であったり空間をまるで自分自身のように感じている、なにか空間の中に自分が溶け込むような感性が感じられます。
日本人は昔からものを霊としてみる感性を持っているんですよね。
ヌーソロジーは物質と精神を別々のものとしてはみないので、ヌーソロジーのものに対する見方はこうした昔の日本のアニミズム的な感性に近いものがあります。
物質と精神の関係を紐解く鍵となるのが素粒子なのですが、ヌーソロジーでは素粒子は霊に目覚める前の魂のようなものだといいます。
霊や魂と言うとなんだか宗教的だったり幽霊のようなおどろおどろしい閉じられた世界を思い浮かべてしまうかも知れませんが、そうではなく、ヌーソロジーの言う魂や霊というのは宇宙のふくよかで美しい霊的流動の世界です。
こうした見えない世界というのは宗教やスピリチュアルで語られるところでもありますが、そういったものは感じる世界になるので理論的な部分はあまりみられません。
ヌーソロジーの凄いところの一つは、目に見えない無意識領域の空間や次元の姿がしっかりとした構造で組み上げられており、それが科学ともきちんと整合性のとれた理論であるところです。
能動的思考によって意識を反転させ、高次の空間認識を獲得することによって「思考だけでもなく感覚だけでもない」理論と感覚の両輪で新たな次元を顕在化させていく。
宇宙を思考すること
それは自分が何者であるのかを思考すること
そのものでもあります。
目に映る全てが
宇宙の霊的な姿だと知る世界では
シンクロニシティというのはたまに偶然を装って訪れるようなものではなく
ありとあらゆる瞬間は
シンクロニシティでしかない
そんな風に、想うのです
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