ポルトガルサッカーの革命児~カルロス・ケイロスの功績について
1.はじめに
マンチェスター・ユナイテッド、レアル・マドリード、ポルトガル代表と指導者として数多くの名門を渡り歩いてきた名将カルロス・ケイロス。近年もイラン代表監督として2大会連続W杯出場を果たしている。
彼の母国であるポルトガルは「育成大国」として有望な若手タレントを多数輩出する一方、ジョゼ・モウリーニョやアベル・フェレイラなどを誇る「指導者大国」としても知られている。
今回はポルトガルサッカー界における「若手育成」および「指導者養成」の礎を築いたケイロスの功績を振り返っていく。
2.モザンビーク時代
カルロス・ケイロスは1953年3月1日、モザンビーク北部の町ナンプラの病院にて誕生した。彼こそがのちのポルトガルサッカー界を変える男である。父は鉄道線路設計技術者、母は保険販売員であった。幼少期は父の経営する会社事務所近くでよく遊んでいた。
父のジュリオ・ケイロスはナンプラの地元チームでプレーしており、息子のカルロスにもサッカーをプレーさせ始めた。最初のポジションはGKであった。
13歳の時に見た1966年のワールドカップはカルロス少年の記憶に深く刻まれている。白黒テレビの画面を通して、ポルトガル代表を応援していたのだ。とりわけ自分と同じモザンビークにルーツを持つ選手、エウゼービオ、コルーナ、イラーリオ、ヴィセンテ・ルーカスには特別な感情を抱いていた。
3.ポルトガルへの移住
1974年のカーネーション革命の翌年、モザンビークはポルトガルからの独立を果たし、家族とともにポルトガルのオエイラス(リスボン郊外)へ移住した。
ポルトガル移住後、彼は体育大学(現リスボン大学体育学部)への進学を決めた。そこで彼は後の盟友たち、ジェズアルド・フェレイラ(元FCポルト監督)、ネロ・ヴィンガ―ダ(元ポルトガル代表監督)、アントニオ・ヴィオランテ(元女子ポルトガル代表監督)らと出会うことになる。
課程修了後は教授として大学に残り、ジョゼ・モウリーニョ、ジョゼ・ペゼイロ(ナイジェリア代表監督)、ルイ・ヴィトーリア(元エジプト代表監督)らに教鞭をふるった。
4.指導者キャリアのスタート
1981年、オリヴァイスのU12で指導者の道を歩み始め、1983年にベレネンセスU15監督、そして同年、エストリルのトップチームにてマリオ・ウィルソンの助監督に就任した。当時のエストリルには前ポルトガル代表監督であるフェルナンド・サントスも選手として所属していた。
5.ポルトガルサッカー連盟(FPF)へのステップアップ
1984年、ジョゼ・アウグスト(元ポルトガル代表)の右腕としてポルトガルサッカー連盟(FPF)へ身を移し、ポルトガルサッカー界の革命が始まった。彼が取り組んだの下記で紹介する5つである。
①トレーニングメソッドの変革
彼は当時のポルトガルサッカーのトレーニングメソッドを破壊し、現代的な分析方法を取り入れた。彼は他のスポーツの練習方法についても丹念に調査を重ね、10年後のサッカー界に通用するであろうトレーニングメソッドを構築した。
当時彼の指導を受けた選手たちは、30年先を進んだ練習方法に感じたという。トレーニングメソッドや試合分析方法の進化を見通す力に関して、ケイロスの右に出る者はいなかった。
30年以上前に彼が執筆したサッカー連盟内部文書には「ポルトガル代表練習施設の創設」が明記されているという。現在のシダーデ・ド・フテボウ(ポルトガル代表の練習拠点)である。実現には30年以上要したが、彼の先見性の卓越さを象徴するエピソードである。
②「ロペス・ダ・シウバ杯(Torneio Lopes da Silva)の創設」
ポルトガルサッカー連盟元会長の名前に由来を持つ、ロペス・ダ・シウバ杯は選手育成における最も大きな変化の1つといえる。現在は才能ある選手たちの発掘および育成は各クラブで行うのが一般的である。だが当時はそういった手法がなく、才能の発掘には大きな困難が伴った。
そこで提唱されたのがこの「相互交流トーナメント」である。ケイロスは国内全地域のサッカー協会へ足を運び、各地域でU15選抜チームの結成を依頼した。そして各地域のU15選抜チームはリスボンに集結し、リーグ戦及びトーナメント戦を戦う。才能の発掘が最たる目的であり、この大会からパウロ・マデイラ(元ポルトガル代表)、ルイ・ベント(元ポルトガル代表)、パウロ・アウベス(元ポルトガル代表)等が飛躍の道を歩んだ。
③サッカー競技人口の増加施策
ケイロスがポルトガルサッカーを発展させるためには、競技人口増加が不可欠であると考えていた。彼が関わったプロジェクト「スキリート」によって、ポルトガル国内のサッカー競技人口を8万人から13万人へ急増させることに成功した。
このプロジェクトには2つの側面があった。
●各クラブの選手育成環境向上に向け、ポルトガルサッカー連盟が財政支援を実施。
●「Futebol nas escolas(学校におけるフットボール)」という学校教育におけるサッカーの授業実施に関し、政府からの財政支援も行われた。
後者はのちに「Skilito(スキリート)」と呼ばれた。ケイロスをはじめとしたサッカー連盟の指導者達がポルトガル国内各地域の拠点へ足を運び、プログラムに登録した子供達のスキルチェックを行った。この主な目的は、優れた選手たちに目星を付け、継続して追跡することであった。
④育成年代のレベル向上
当時ケイロスが抱えていた懸念の1つが、育成年代の国内大会レベルの低さであった。試合数が少なく、強豪同士が試合を組む機会も少なかったため、拮抗する試合も多くなかった。そこで彼は新しいモデルを構築した。
彼はサッカー連盟に対し、より競争力のある大会への再構築を提案した。だがこの提案は猛反対された。当時のサッカー連盟は1986年メキシコ大会で起こった内紛「サルティーヨ事件」のトラウマを抱えており、「変化」を嫌う人物が多くいたのだ。彼は状況を変えるべく、各地域のサッカー協会へ足を運んだ。そこで自ら考案した大会のコンセプトを説明した。そして彼に説得された各協会は自ら大会形式の再構築に動き始めた。
さらにもう1つの取り組みとして育成年代の選手達との「長期合宿」も実施した。当時はクラブ間のハイレベルな大会がなかったため、3~4週間単位で高頻度で行い、練習内容もハードなものであった。
こうした取組みで若い才能を開花させ、ルイス・フィーゴやルイ・コスタを筆頭とした「ポルトガル黄金世代」を率いて1989・1991年のユース世界選手権連覇を達成した。
⑤指導者養成の仕組み作り
最後にケイロスは監督養成の変革にも着手した。当時は指導者養成のシステムが整備されておらず、各自が自分の選手時代の経験のみに基づく指導を行っている状況であった。当時は国内に点在していた「指導者たちの組合」が指導者養成に携わっていたが、カリキュラムも存在せず、ライセンスの合格は厳しく制限されていた。
ケイロスが体育大学の教授を務めていた頃、政府のスポーツ省と共に指導者養成の促進や、大学生たちも指導者を目指すことが可能な新課程の整備に取り組んだ。こうした指導者養成の仕組み作りは、現在のポルトガルサッカー界における重要な役割を担っていると言える。
6.最後に
カルロス・ケイロスは上記の通り、ポルトガルサッカー連盟において数々の革新を行ってきた。現在ポルトガルがサッカー界において世界トップクラスに君臨しているのも、彼の功績抜きに語ることはできない。
彼が行った「革新」はポルトガルサッカー連盟内で反発を多く受けたが、ポルトガルサッカーの発展に大きく貢献した。昨今のサッカーメディアではポルトガルを形容する際に「育成大国」という言葉がよく使われる。この「育成大国」の裏にはカルロス・ケイロスの功績があったことを是非覚えていていただきたい。(終)
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