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教諭たちが語る〜小学生時代のロナウド

1.はじめに

「選手」としてのロナウドについては数え切れないほどの記事が出回っているが、学生時代「生徒」としての彼を描写した記事は少ない。

そこで今回はポルトガルメディア「Tribuna Expresso」が彼を指導した小学校教諭達を取材した記事(2017年)を基に、学校でのロナウド少年について迫っていきたい。

2.叔母のアナさんが語ったロナウド少年

ロナウドの叔母、アナ・パウラ氏
(出典:https://tribuna.expresso.pt/ronaldo/2017-12-07-A-escola-do-miudo-madeirense-que-fintava-os-continuos-e-se-gabava-ao-padre-de-ser-o-melhor-marcador-nos-torneios)

1995年、小学校5 年生(※義務教育第2期の始まり)の時、母親ドローレスの強い要望でゴンサルヴェス・ザルコ小学校に入学した。父方の叔母であるアナ・パウラが働いていた学校であり、親戚の近くで息子を見守ってもらいたい思いがあったようだ。

甥っ子クリスティアーノの面倒を見ていたアナは、当時をこう振り返っている。

「本来の養育責任者は義理の妹でしたが、私が彼と同じ学校で働いていたので、クリスティアーノに注意を払うよう頼まれたんです。」

※ポルトガルは義務教育が以下3期に分かれている。
第一期:6歳~10歳(日本の小学校 1 年生から4年生に相当)
第二期:10歳~12歳(日本の小学校5年生から6年生に相当)
第三期:12歳~15歳(日本の中学校1年生~3年生に相当)

母校のゴンサルヴェス・ザルコ小学校
(出典:https://funchalnoticias.net/2020/06/04/escola-goncalves-zarco-organiza-semana-da-terra-ate-5-de-junho/)

アナ・パウラは現在(2017 年時点)も同じ学校で働いており、当時のクリスティアーノについてこう語った。

「当時は朝8時登校だったのですが、彼は所属していたナシオナル用の練習カバンを何度か家に置き忘れて来ました。そんな時、彼は授業どころではく、ソワソワしていたんです。だから私は彼に家に取りに帰ることを許可していました。」

アナは彼が短い休み時間であっても常にボールを蹴っていたことを覚えている。そして毎回休み時間から戻るのが一番遅かったとのこと。

「毎回サッカーか卓球のどちらかをプレーしていました。サッカーと並んで卓球も大好きなんです。」

一方で甥っ子に対して誇りに思っている事があるという。
「彼は在学中、素行不良で呼び出されたことは一度もありませんでした。頭の中にはサッカーしかなく、彼にとっては呼吸と同じくらい当たり前の存在でした。」

「私の母であり、彼の祖母は彼がA代表に初めて招集された時のポスターを部屋のドアに飾っています。当時の学校関係者は皆、彼の飛躍ぶりに驚きを隠せません。1995年に入学した当時は変わったプレーをする生徒の一人にすぎなかったですからね。」

3.美術教諭が語ったロナウド少年

元美術教諭のセリーシア・ソウザ氏
(出典:https://tribuna.expresso.pt/ronaldo/2017-12-07-A-escola-do-miudo-madeirense-que-fintava-os-continuos-e-se-gabava-ao-padre-de-ser-o-melhor-marcador-nos-torneios)

当時美術教諭をしていたセリーシア・ソウザは廊下を駆け抜けていたロナウドの姿を覚えているという。

「ドリブルでフェイントをしながらショートカットをして校庭に駆け出していました。ピッチ上でのごとくフェイントを仕掛け、私の腕の間をすり抜けていきました。授業に来るのも、休み時間から帰るのも常に一番最後で、いつも汗だくでボールを腕に抱えてました。でもけっして無礼な態度は取りませんでした。彼と話したことも良い思い出です。じっとしているのが苦手な子、ということは皆が覚えていると思います。」

4.神父が語ったロナウド少年

宗教・倫理の授業を担当していたディアス神父
(出典:https://tribuna.expresso.pt/ronaldo/2017-12-07-A-escola-do-miudo-madeirense-que-fintava-os-continuos-e-se-gabava-ao-padre-de-ser-o-melhor-marcador-nos-torneios)

20年以上の年月が経過し、当時のロナウドを指導した教師たちも少なくなった。当時の彼を知る数少ない一人が、宗教・倫理の授業を担当していたジョアン・フランシスコ・ディアス神父である。

彼は当時のクリスティアーノの印象をこう語った。

「彼は既にフットボールへの情熱を持ち合わせていました。しかし、現在のような名選手になることについて、疑念を抱いたり想像できた人は一人もいなかったと思います。」

「クリスティアーノは優秀な生徒ではありませんでした、それは彼自身も認識していると思います。私がこう言うのには理由があります。」

「ある日彼が私のところにやって来て、ポケットから紙切れを出しました。それは新聞の切れ端で『クリスティアーノ・ロナウドが大会得点王。』と書かれていました。『サッカーでは自分が一番だ』と言わんばかりで、その時の彼の目には喜びと輝きが溢れていました。」

「彼にとってサッカーというのは、自分自身を表現し、社会性を高め、友達を作る手段だったのです。」

「私が授業で言っていた事を彼は覚えているのだろうか、としばしば考えることがあります。私は授業において、『良き人になれ、良き人であれ』と繰り返し伝えていました。他の生徒達と同じように、彼もその教えを覚えていてくれたら嬉しく思います。」

クリスティアーノはこの学校で長くを過ごすことはなかった。5年生を留年することにはなったが、1995年から97年までの2年をかけて5年生課程を修了した。そして1997年の7月、スポルティングへの移籍に合わせ、テリェイラスの学校へ転校した。

5.最後に

授業の合間の10分休みでさえ、サッカーを欠かさなかったクリスティアーノ少年。その情熱は30年近くたった今でも陰りを見せない。5年生を留年するなど学業では振るわなかったものの、サッカーでは圧倒的な才能を誇った。マデイラ島で周囲の愛情を受けて育った少年は、12歳にして島を出ることになる。その後、首都リスボンで経験する様々な苦労話については別記事で書くことにする。
(終)

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