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火樹銀花

秋口の夜。星も月も見えない暗い空はしっとりと黒い。天気予報の通り、朝はすっきりと晴れていたのに、午後になるにつれて次第に雨がひどくなっていた。
白のシャツに黒のホルターネックエプロンを着けた老紳士は客のいない店内に佇み、そんな空を眺めていた。歳の割に上背のある、ロマンスグレーの老紳士。整えられた口髭は名優トム・セレックを思わせる。若い頃さぞ浮名を流しただろうハンサムな顔立ちで、加齢により尚濃くなった彫りの深さも、目尻や口元にできた皺でさえ、彼の魅力を損なう理由にはならなかった。彼はこの店の主であり、見た目通り紳士的な人柄から多くの人に慕われている。

「フジくん。雨ひどくなるみたいだから、今日はもう上がってしまいなさい」

振り返った先。年季の入った、しかしよく手入れされたサイフォンが並ぶカウンターの奥で、店主と同じ制服に身を包んだ青年がカップを磨いていた。緩慢に弧を描く唇の横に小さなホクロがある、淡い色を纏う男だ。

「あら…掃除まだ済んでないんですけど、大丈夫ですか?」
「いいよいいよ。傘を差せるうちに帰りなさい」
「では、お言葉に甘えて。ありがとうございます、マスター」

フジと呼ばれた彼の名は、東海 藤司郎(はるみ とうしろう)と言う。マスターとの血縁は感じないものの、古くさい名の割に爽やかで端正な顔立ちと色素の薄い髪や肌のせいか、どこか儚げな美しい青年だった。完璧に見える容姿に無理やり難癖を付けるとすれば、彼の持つ色彩の中で唯一はっきりとした濃色の碧眼が、嫋やかな笑みを浮かべる唇に比べ些か機械めいた感じがすることだろうか。
彼は学生の時分からこの喫茶店に通っていた元常連客だ。彼のツレの学友たちの会話に耳を傾けていると、大学において彼はどうやら優等生らしかった。なのに、ある日リクルートスーツを着た彼を見たマスターは、何を思ったか、「こだわりがないなら、うちで働かないかい」と声をかけたのだ。その言葉に珍しく年相応に、否、いっそずっと幼い表情できょとんと碧眼を瞬かせた彼だったが、長い睫毛を何度かパシパシさせてから「なるほど。是非」と実に簡単に頷いた。大手企業の選考を勝ち進んでいた彼は早々に辞退の旨を告げ、そのことは当時の友人たちをひどく驚かせた。
かくして、この店…『喫茶パドマ』のギャルソンとして雇われた彼は、今日も今日とて開店から閉店までせせこましく働いていたのだった。

「傘は持ってきたかい」
「ええ、天気予報見て来ましたから」

マスターの勧めを受けて帰り支度を済ませた東海はビニール傘をひょいと掲げた。マスターはそれを見とめて歯を見せて笑んだ。一昨年還暦を迎えた男とは思えぬ、まるで芸能人のような真っ白な歯が眩しかった。

𓈒 𓂂𓏸

ビニール傘についた雨粒が街灯の灰がかった光を反射して歪に、僅かに煌めく。片手をポケットに突っ込んで歩きながら頭上の透明の膜を見上げ、次々できる斑模様を眺めた。風もなく、静かに降るだけの雨は足元をほんの少し濡らすくらいで、東海にはちっとも気にならない。雨だからと歩を早めることもなく、寧ろゆったりとした足取りでいつもの道を歩いていた。しっとりと濡れた道路は黒く光り、街灯の明かりを仄かに反射している。星も月も見えない空でも街灯も疎らにしかないような田舎とは違い、都会はいつでも明るかった。
ふと、通り過ぎたばかりの、街灯の明かりが届かない路地の奥が気になって歩を止めた。雨粒が傘に落ちて軽い音を立てて跳ねる。どうして気になったのかしらと小首を傾げ、何の気なしにじっと暗闇を見つめる。やはり暗闇の中で何かが蠢いた気がして、いよいよ捨て犬か捨て猫か…、とそうっと闇に近付いた。
初め、それが人とはわからなかった。
闇の中に浅黒い肌が溶け込んで、輪郭が曖昧にぼやけている。屋根も無い路地だから、しとしとと降る雨で白いシーツがぺったりと張り付いており、その肌が透けて見えた。

「わ、人だぁ」

東海は、路地裏で猫ちゃんを見つけた稚い幼女のように無垢な、気色ばんだ声を出した。大凡、夜の路地裏で全裸の男が倒れている所を発見した成人男性の出す声ではない。東海は気にせずポケットに入れてあるスマホを取り出して、無遠慮に人影をライトで照らした。突然顔あたりを照らされた全裸にシーツを被った人物は、きょと、と目を瞬かせた。額の横から角が、シーツからはみ出た尻から猫のような尾が生えていると分かって、東海は目を輝かせた。暗い青毛の尻尾がゆらゆらと振れる。彼はまるで温いベッドの上で眠っていたかのように、ふにゃふにゃと目を擦りながら上体を起こした。実際は雨が降る夜の路地裏、アスファルトの上なのだが。

「う…、う?」
「こんばんは。そんな格好で寒くないかい」

寝ぼけ眼でこちらを見上げる双眸は、闇の中だというのに動物さながら黄色に光っていた。体格は東海とそう変わらないが、どこか幼げな印象を受ける。東海は緩慢に上がった口角をそのままに、ゆっくりとシーツに包まる塊に近付いた。浅黒い肌、三白眼の黄色の瞳、紺に近い青毛の御髪。額の横から三連に生えた角、尾骶骨から伸びる髪と同じ青毛の猫のような尻尾。精悍な顔つきだが、表情はやはりどこか幼く、こんな無防備な姿なのに近づいてくる東海を見上げるばかりでひとつの警戒心も見せなかった。濡れたコンクリートで寝ていたからか頬には細かい砂利がついており、汚れている。東海は細い指でその砂利を軽く払って輪郭を辿り、親指の腹でかさついた唇を優しく撫ぜた。

「唇が真っ青だ」

青年は、んぅ、とむずかるような可愛い鳴き声を上げただけで東海の指を振り払うこともしない。それが可笑しくて東海は彼を見つめたまま、あはは、と口だけで笑った。距離感がバグってる、と仲の良い後輩のミキオにもよく指摘されているが、毎度、ごめんねぇ、と口だけの気のない謝罪をするだけなので、彼にはすっかり呆れられている。なのに、この摩訶不思議な青年は初対面である東海に薄い下唇を摘まれてふにふにとされても、文句も言わずにされるがままだ。第三者が居ない今、二人して人の常識から外れっぱなしなので、収拾がつきそうにない。

「ねえ、僕の家なら屋根があるけれど、来るかい」
「…ひぇ(いえ)?」
「そう、僕の住処だよ」
「ふみは(すみか)…」

東海の住処は店から少し歩いた所にある。祖父母が離婚する前に一緒に住んでいたという小さな平屋の家だ。祖父が亡くなったと知ったのは東海が物件を探し始める直前で、詳細を知らされなかったのは姉二人も同様だった。祖父の話題を出すのは東海家ではタブーなのだ。存在だけしか知らない祖父の死に、姉弟たちは特に感慨も抱かなかった。さて、しかし祖父は律儀に遺言書を残しており、この家の権利を孫子たちに譲るとはっきり書いてあった。しかし、祖母は離婚後まだ幼かった母を連れて地元に出戻り、以来ずっと関西で暮らしてきた。今更東の地に用はなく、処分する他ないかと考えていたところ、折りよく東海の上京が決まったもので、彼もまたありがたく祖父の家を譲り受けたのだった。

「温かくて安心できるところだよ」
「! あったかいの?」
「そう。何より、雨に濡れずに済む」

この時、東海はようやっと腰を屈めてしゃがみ、謎の青年と目線を合わせた。夜の空に浮かぶ月のように、闇の中で黄金色の瞳がキラキラと輝いている。どう?と首を傾げて聞いた東海に、青年はパッと笑顔になってコクコク頷いた。東海もまた笑顔で返すと、彼の手を取って立ち上がらせた。

「少し歩くから、このシーツはまだ羽織っていてね」
「うん!!」

繋いだ手はそのままに、だけど、優男風の顔とは裏腹に人の心がない東海は、既にびしょ濡れの摩訶不思議な亜人に傘を傾けることはしなかった。彼も傘の外、雨など降っていないかのように、軽やかに飛び跳ねてアスファルトの水溜まりを歩く。人畜無害な顔でニコニコと笑うなか、開いた唇から小動物など簡単に咬み殺せそうな鋭い犬歯がチラついても、やはり東海は気にしなかった。

「きみ、お名前は?」

手を繋いだ先、道も知らずにはしゃいで先行していた彼が東海を振り向く。彼の濡れた浅黒い肌を蛍光灯の光が鈍く照らして頬の輪郭がぼんやり白ける。東海を捉えた黄金色の瞳が獰猛に細められると、それが野蛮にも、何故だか神々しくも見えてぞくりとした。

「アドルフォ!アドルフォ・デ・リオ!」

神か、悪魔か、それとも?自分は果たして一体、”何”の名を知ったのだろう!
緩慢に弧を描く唇はやはりそのまま。しかし、見開かれた濃色の碧眼は星を映したように輝いていた。東海は、彼、アドルフォのように、無邪気な子どもみたいに笑った。

「僕は藤司郎。東海 藤司郎」
「とうしろ?」
「そう、とうしろ」

きょとんと小首を傾げるアドルフォに、東海はクスクス笑ってまろい言葉で囁いた。祝日の夜だというのに、示し合わせたようにひとっこ一人いなかった。暗い路地、強くなる雨足に二人の声が掠れ消えていく。星も月もない夜、蛍光灯の安っぽい明かりだけが水溜まりに反射していた。

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