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あいどる

感情は「快」「不快」の二つから枝分かれするように発達していき、喜怒哀楽だとか、そういう基本的な感情が備わった後に自己意識感情が出現する。
自己意識感情は、自己覚知、自己表現、自己評価を経て出現するだとか、他者との関係、社会規範、文化規範との関連において出現する側面があるからとかで、自己意識的評価感情や、社会的感情、道徳的感情とも呼ばれる。
主要な感情はおおよそ4歳頃に確立するといわれているが、どうだろう。感情の芽生えだの、物心が着いた頃~だの。誰かの後を追ってよちよち歩いていた頃のことなど、はっきり思い出せるわけじゃない。
自分が覚えていると思っている記憶は、果たして本当の体験をそっくりそのまま記憶しているのだろうかと疑問に思う。
思い出話に花を咲かせる時、そういえば貴方はこういう子だったのよ、と聞かされたものを記憶として補完しているだけだったりして。
ところで、おれがはっきりと思い出せるもので印象深く記憶に残っているのが、7つ上の姉の七五三のアルバムを見たときのことだ。
自分が生まれるより前に姉の七五三は済んでていて、写真館で撮ったアルバムが祖母の部屋の本棚に仕舞われていた。一時期はそのアルバムを祖母の膝の上で広げ、ページをめくってもらうのがお気に入りだったという。
パニエを幾重にも重ねたふんわりとしたドレス、美しい絢模様の着物。写真の中の姉は可愛らしくはにかんでおり、絵本に出てくるお姫様のようだと真剣に思っていた。そのままに姉を褒めると、お転婆の彼女も写真の中とおんなじ顔でかわゆく笑うのだ。


「お、ミキ今日出勤だったんだ」
「おう。おつかれー」

小汚い裏路地からスタッフ専用のドアを開けて店に入ると、コスチュームに着替えた同僚と出くわした。
手が隠れてしまう程の長さとたっぷりした素材の袖が特徴のチャイナドレスを着ており、スリットから組んだ足が伸びている。”彼”に一瞥をくれたミキオは、ハッと吐き出すように笑った。

「なにお前、またチャイナかよ。おれの方が似合うっつったろ」
「は?ボクのが似合うわバカ。自分のサイズないからって僻んじゃって」
「ハ~?おれがおねだりしたら一発だかんな?あいつ何でも買ってくれっからな?」
「なあ、今俺を”あいつ”呼ばわりしたか?」

奥の簡易デスクのPCでかちゃかちゃ仕事をしている店長の存在に構わず軽口を叩けば、彼は顔も上げないままその低い声で無礼をたしなめる。
はははと乾いた声を出して同僚が笑う。ミキオもそれにくつくつ鼻の奥で笑い返し、店長の方へ足を向ける。狭いバックヤード、彼の長い脚であっという間に距離が縮まった。

「ね~え、てんちょお♡おれのチャイナ経費で買って~ン♡」
「ウワ。だめです。はやく準備しろ」
「チッ…湿気てんなぁ…」「アハハハ」

腰を垂直に折って目線を合わせ、猫撫で声を出す。如何にわざとらしくとも、彼の凡人に有り得ない頭身には威圧感が、整った顏(かんばせ)には男も思わずクラリとするような色気がある。間近で目が合えば顔を真っ赤にさせて魚のように口をはくはくさせる者もあるだろうし、例えば「これ着けとくと、ん〜、なんつーの、神力ってやつ?あれが高まって…、あー、理屈はおれにもよくわからんけど、なんかいーことが起こるンだってさ」と胡散臭い数珠なんかを雑にセールスされても、この美丈夫が内側に筋の浮く手首に揃いの数珠を着けていれば買い上げてしまう者もあるだろう。しかし、店長は彼の身長から来る威圧感に僅かに仰け反っただけで、素気無くあしらって終いだった。
二癖三癖あるようなキャストを仕切るだけはあって、こんなのは慣れっこなのだ。そんなことは勿論みんな分かっているが、ギャルがオタクくんを捕まえて揶揄うような、そんな暇つぶしを彼でやるのがキャストみんなの趣味で定番なのだった。

店長の反応に満足してあっさり離れた彼が定位置の椅子に長い足を組んで座ると、所謂女優ライトのついた鏡に柳のような・菖蒲のような美しい顔の男が映った。
バッグからポーチを取り出して化粧品を雑に並べる。基礎化粧品は持ち歩くのが面倒なので、ベースメイクは済ませて来た。寝不足によるクマもばっちり消えている。

「肌キレー」

隣に椅子を引き寄せ座った同僚の言葉が指すのは、作られた肌のことでないと分かった。ミキオは鏡の中の自分を真っ直ぐ見つめたまま、ウン、と素っ気なく頷いた。見れば分かることだから褒め言葉として受け取ることもなければ何の感慨も抱かないので、頷くしかなかった。
自分の顔立ちに可愛らしい化粧は似合わない。真っ直ぐ通った鼻筋、瑞々しく淡い色をした薄い唇、無駄な肉のない頬と輪郭は涼やか。薄化粧に見えるようなふんわりアイドルメイクが似合う、まろく柔らかな顔立ちではないからだ。
アイメイク用のベースを塗った後、落ち着いた色合いのアイシャドウをブラシにとって薄く瞼にのせる。どうせ前髪で隠れてほとんど見えないじゃないか、なんて、そんなこと言うのは野暮だ。
単色で買った白っぽいゴールドのラメを指にとって、目頭とアイホールの真ん中あたり、シャドウの境い目をぼかすように入れて品良くゴージャスに仕上げる。内から光るような発色が気に入りだった。
欧米人のそれと比べても一切の引けを取らない長く密な睫毛をビューラーで上向かせる。下向きに軽く引っ張るようにして挟むのが今の定番。元からこういう睫毛ですよと言わんばかりの自然な仕上がりになるのが好きなのだ。綺麗にくるんと上げるのも楽しいが、それにマスカラも加えると冗談みたいに派手になるのだ。
ハ?そんな立派な睫毛があるならマスカラ塗らなきゃいいんじゃないかって?…はあ、そんなこと、この子の前で言わないでくれる?客にオネダリして手に入れたマスカラちゃん(RMK)が泣いちゃうだろ。
さて、今日のアイライナーは柔らかい色味のブラックをチョイスする。色も太さも長さも形もこればかりは気分次第。目頭の切開ラインと太い跳ね上げラインで作る流行りのフォックス・アイはミキオの涼し気な目元に似合うし、とびきり色っぽく仕上がる。が、今日の仕事着は”いつもの”。キツくなり過ぎないよう、ほんのちょっと目尻を跳ね上げるに留めよう。
それこそチャイナ服ならフォックス・アイがぴったりかもしれないな。あれは高飛車な格好によく似合うだろう。…ア。もうちょっと淡い色のペンシルアイライナーなら、そうキツくならずに”いつもの”にも似合ったかもしれない。今度試してみよう。
アイメイクは終わり。チークは入れないし、シェーディングは済ませてきている。ならば最後のお楽しみに移ろう。
化粧品を全部ポーチに入れてバッグに戻し、もう一つ、違う色のポーチを取り出す。ミキオは歌うように唸りながらカチャカチャ音を立ててポーチの中を弄り、楽しく迷った末にrom&ndと黒のグロスを取り出した。
パーソナルカラーでいうと自分はブルべの冬タイプなんだろうと勝手に思っている。暖色より寒色が似合い、淡色より濃色が似合うから。
そう、濃い色の方が断然似合うのだけど。ここはキャバレーじゃァないし、服にも合わないから。
ミキオが選んだリップは07番「FIZZ」。グラデーションを作るため内側に少量をのせて唇を合わせ、ンーマ、と色を雑に延ばした後、指先でぼかしていく。薄い唇がマットに、淡くかわいいチェリーレッドに色づく。
このままだと可愛すぎるので、仕上げに黒のグロスを薄く重ねる。かわいいチェリーレッドは齧れば芳香立つ果実のようにじゅくじゅくと、悪夢のように暗く濡れた。
ミキオの化粧をまじまじ見物していた同僚は、熱に浮かされた少女の眼でうっとり溜息をつく。
彼は構わず立ち上がると角に着替え用のボックスがあるのにも関わらずその場で脱いで下着一枚になった。
ハンガーにかかった”いつもの”から、白い手袋を取ってその手にはめる。
大きな白襟とショルダーパフが可愛いお仕着せの黒いロングワンピースを被るようにして着るのに、白い体躯に肋骨が浮き出るのが一瞬見えて、すぐ隠れた。服に入ったままの三つ編みを引き出す時、うなじにキラとボディピアスが光る。
ハンガーに残った白のエプロンには大ぶりのフリルが付いている。ウエストをきゅっと絞る太めのリボンを背中で結べば、”いつもの”スタイル。
研究の合間、実験スペースを勝手に使って調合した気に入りのコロンを纏えば、浦元幹男(ミキオ)改め、「コスプレ男の娘パブ TOXIC」所属キャスト・ミキの完成だ。
イランイランの癖のある甘さと、白檀のエキゾチックでスパイシーな香りをメインに複雑に調合されたオーデコロン。人を選ぶ代物だが、それが似合うのがミキオであり、ミキだった。
清廉潔白・謹厳実直を体現したようなクラシカルなメイド服にアンニュイでセクシーな香りが漂う。相対的なものを調和させてしまう魅力が彼にはある。
ゆったりと足を組んで椅子に座り直した”ミキ”は、黒い巻紙のタバコに火をつけながら灰皿を引き寄せた。肺の隅々に煙を満たして誰に遠慮することもなくハァと大きく煙を吐けば、噎せ返るような甘ったるいヴァニラの匂いが空間に漂う。仕事前の一服は欠かせない。
コスチュームにタバコや香水のにおいをつけるなと苦言を呈していた店長も今や何も言わないし視線も寄越さない。すっかり諦めたらしい。それだからミキは新しい衣装を買ってもらえないのだ。

「ミキ、こっち向いて」

同僚が自身のiPhoneのカメラを向ける。彼は”ミキ”の大ファンであった。
ミキは目線は向けないまま長い脚を組み替えて、甘い煙をゆらゆらさせながら先程履き替えたごつい足袋ブーツのつま先を怠惰に見つめた。喫煙は彼の精神統一タイムなので返事もしない。
画面越しのミキはウルフカットで真っ直ぐ切り揃えられたボブくらいの長さの青髪の毛先を気にするばかりだ。
重めに作られた前髪から覗く、長い睫毛に縁取られた濃ゆい赤紫が気まぐれに視線を寄越す瞬間を、同僚はおぼこい少女のようにドキドキしながら待つ。
そして、不意にタバコを咥えた悪魔色の薄い唇が、ふ、と浅く笑ったと思ったら、吐き捨てるような・嘲るような目線を寄越してくれた。

「おまえほんと好きね、おれのこと」
「グ、心臓に悪いくらいなッ!早死にする前に責任取ってくれ!!」
「よせよ。おれァ女が好きなの」

同僚が撮った写真を自分のケータイにも送らせて、机に肘をつき頬杖で顎を支えて、お行儀悪くぐんにゃり座って眺めた。手のひらサイズの画面の中に収まった自分は…。


幾重のパニエ、ふんだんに使われたフリル、繊細な刺繍の入ったレース、キラキラのビジュー、サテンのリボン。はっきりとした原色カラーじゃない、淡い色の可愛いアイテム。
当時己の胸をときめかせたそれらが、基本的に女の子だけのものだったなんて幼いミキオは知らなかった。
じゃあ知ってどうだったかというと、別に、どう思ったこともない。自分は自分が着たい服を着て、自分がもっと美しくなるメイクをするだけ。似合わないならやめたかもしれないが、幼いミキオも今のミキオも、ドレスのような華やかな衣装と花を飾るような化粧が似合うのだ。
”女の子”って偶像に憧れがあるわけでもない。性自認は体のまんま男だし、勘違いされることもあるがヘテロだ。ただ、自分の思うままに着飾りたいだけ。
ミキオは自分に”似合うから”女装をしているので、その行為に羞恥も興奮も葛藤もない。だけど”ミキ”を見て、無理矢理に志向や立場を当て嵌められた挙句、勝手に同情されたり説教されたりすることもマァあって。その度に、なんだかなあと思うのだ。
所詮自分以外は皆他人で、関わる人間を簡単にキャラクター付けして接している。ある程度 自分もそうして人間関係をこなしているのだけど、この店で働いていると、そういう扱いをされているなと感じることがやたら多いような気がする。
ミキ目当てで店にやって来る客も少なくないし、そこそこに人気がある。
ミキオは傍から見れば変人の部類ではあるが、最低限の常識はあるしコミュニケーション力も高い方なので、友だちもいれば、先輩からは可愛がられ、後輩からは懐かれる等、同性受けは意外とイイ。
柳のような・菖蒲のような美貌を持ち、かつ飾らない性格であるからして、女友達の皮を被ってミキオの一挙手一投足を虎視眈々と見つめている女の子も複数いる。
逆上せあがるような恋はしたことないし、人間関係においてはドライだ。相手に深入りすることがないから逆もまた然りで、無遠慮に深入りしようとしてくる人とはそっと疎遠になる。
”ミキ”はキャストという立場上、客を、付き合う人間を選べない。ショーケース越しの視線は極たまにミキオを空々しい気持ちにさせる。自分がエンターテイメントとして消費されるのは不思議な心地だ。甘い蜜のような優越感を飲み干せば煩わしさが喉を焼き、最後は虚無感が腹に溜まって己を内側からすり減らしていく。
自分が女だったら、少なくとも奇異な目を向けられて知らぬ間に消耗することもなかったかもしれないなぁと頭に過ぎるが、やっぱり女になりたいわけじゃない。そして、広く人に認められたいなんて気持ちもない。
写真の中でお姫様のように着飾って微笑む幼い姉に、憧れだけじゃない、焦がれるような感情をずっと抱いていた。花束を抱き締めるようにアルバムを持ち出してきて飽きもせず祖母の膝の上でずっと眺めていた時分、ミキオにはそれが何かずっと分からなかった。
しかしある日、不意に気づいた。あれは生まれて初めての嫉妬だったのだと。


「どれもよく撮れてるでしょ」

スマホを覗き込むようにして同僚が視界に入ってきてそう言うので、ぼうっとしていたところ我に返って改めて写真を見る。
写真の中のミキオ…いや”ミキ”は、柳のような・菖蒲のような美しさをメイクと衣装によってより濃く薫らせている。淡く雲散するタバコの煙が靄がかる様は朧月を思わせた。紛うことない麗人である。
だけど、それでも。アルバムの中ではにかむ姉の輝かしさに比べると幾らか劣るのだ。
蠱惑的な微笑を浮かべる悪夢のような唇を見て、あぁ、ちょっと濃かったかな、と親指の腹で下唇の表面を軽く撫ぜた。同じ右手の指に挟んでいるタバコはすっかり短くなっていて、それでもまだヴァニラの混じった苦甘い匂いがした。

「皆さん、そろそろホール出て」

大して大きな声でもないのに店長の一声が控室に通ると、あーヤダヤダ、と重たい腰を上げる声や、稼ぐわよぉ、とはしゃぐ声が聞こえてくる。
灰皿にタバコをぎゅっと押し付けて火を消し、最後の一息を吐く。

「あいどるしに行くか…」
「アイドルするって動詞なん?」
「あぁ、おバカは知らんかもしれんけど」

ミキの適当な返事に同僚は眉間に皺を寄せ、胡乱気などんぐり眼で見上げてくる。唇を尖らせちょっと考え込む素振り。そして、意を決してといった様子で再び口を開く。

「…なあ、それテキトー言ってんだろ」
「アハハ…おまえ、ひょっとしてゴールデンレトリーバーくらいは賢い?」
「おー、今めちゃくちゃバカにしたろ。流石にボクも分かるぜ」
「アッハハハ!」


アイドル。「崇拝される人や物」「あこがれの的」「熱狂的なファンをもつ人」。そして、「偶像」。
英語のidolが語源の和製英語。英単語のidolには日本で使う「アイドル」の意味はない。
”ミキ”っていう偶像は至極便利で心地いい。だが、あくまで偶像なのに、自分自身と見つめ合うのを強要されている気になるのが煩わしい。
だけどマァ、些末なことである。たまにセンチになって思い耽ることもあるけれど、偶像崇拝主義の下らん理想に合わせてやる気もさらさらない。


おれは今日も、今自分が一番ありたい姿でいるだけだ。

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