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弔いとは誰のためにあるのか

前回の続き。大阪。

長柄人柱巌氏碑を見て長柄橋を歩いて渡ろうと決めたのだが、Googleマップ見てたらその道すがらに「細川ガラシャの墓」があった。
寺の墓地に。

ガラシャといったらキリシタン、石田三成に追い詰められたときにはキリシタンであるため自害できず家臣に自らを斬らせたという話で有名だ。

その墓が寺にあるのか。
ガラシャをなんとなく気の毒に思う気持ちを持ってそのお寺へ向かった。

その墓はこのお寺を菩提寺としたという室町幕府6代将軍足利義教と並べてとても丁寧に祀られていた。

明智光秀の娘として生まれた玉子(ガラシャ)は織田信長の命令で細川忠興に嫁ぐ。
忠興の父藤孝は将軍足利義昭の家臣だったが、義昭は信長に追放されて信長の家臣となっていた。
するとなんと父光秀が信長を討ってしまう。
その時点で玉子は離縁・追放されてもおかしくなかったのだが、幽閉されることになった。
そこに忠興が通い、子どもももうけている。
忠興が秀吉の命令で九州討伐へと向かう間に密かに洗礼を受け、ガラシャの名を得る。
それを知った忠興は怒り、ガラシャに辛くあたったようだ。
その後、忠興は今度は家康の命令を受けて北陸の討伐へと向かう。
その間に兵をあげた石田三成によってガラシャは人質に取られそうになるが、「留守中に辱めを受けそうになったら果てよ」との忠興の言いつけのとおりに家を燃やし、自らを家臣に斬らせた、と。

戦国の世をしたたかに立ち回った細川家は徳川幕府より肥後熊本に知行を得て、現代まで元総理大臣細川護煕へと続く家柄を守っている。

ガラシャを失った忠興は。
キリスト教式の葬儀に参列し、キリスト教式に葬らせ、そののちに細川家とゆかりの深い崇禅寺に墓を移したらしい。

だからキリシタンであるガラシャの墓がお寺にあるんだね。
いろいろありすぎるほど波乱万丈の人生だったけど、きっと忠興はガラシャを大切に思っていたんだろうなぁ。

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