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「リラックスと緊張」は「カレーには福神漬け」と同類語。



いつも今まさにとなりで戦いが起こってるような緊張した感覚がする。これは社会を生きる中で普通なんでは?と自分では思っていて、動物でも常に周囲の物音がすればすぐに反応するように、人間の社会の中ではつくられた安心がすごく高度に散りばめられると思う。何も起こってないのにどこが不安なの?ではなくて不安と恐怖の中でリラックスをつくることが課題になってくる。

そんな事は全くないという人はどこかにそれを工夫してることか、見ないようにしていたり。そういうほんとの気持ちをなかなかリアルでは聞かない。

安心には何となく生活に馴染んでることも大切になってくる。「この瞬間にも緊迫の中でリラックスをつくってるんですよねぇー。常に今も^ - ^」とかいうとヤバそうって言われる。けどそういう人にはわたしもヤバそうって思ってて「すごい戦場にいてと馴染むやん、すごい嘘つけるやん」と思うこともある。違反で点数が減るわけでもないのに、決まりきった動きをすることで安心しようしていると見える。

今、異常事態なのか?と見渡して考えることは、高度な安心のようなものを与え続けられるとできないようになってくる。
「安心」のようなものは身近にいつもある。
見るもの聴くものほとんどがそれな気がする。
それを感じたときに緊張感は高まってくる。


わたしのみえる世界では自分が精神不安とかでなく普通と言われる日常が異常事態が起こってる。「緊張の中のリラックス」は「カレーには福神漬け」と同じすぎるくらい当たり前で、その中で生きてる。
異常を身につけるということも大切に思う。
世界の反対側に行ってもわたしの現実は緊張感でいっぱいなのだろうと考えてるので、どこかには求めてるものがあるなんて考えたら探し続ける間に絶望感で包まれたまま死んでいくと思う。
異常もとりいれながら、自分がリラックスできるようにやってみるかなぁと、ほんとに安心できるものはどこにあるのかを探さないで、ゆるい感覚で取り組むと好きなリラックスが起こりやすい。

これは全部妄想でここで書いてる異常はわたしの感覚や脳みそってこともある。正解なんてはどっちでもよくて、心、内側がリラックスしてればなんでもいい。おにぎりをどこから食べてもいいみたいに考えてる。もはや異常がどっちとか誰の頭がどうとか、何があっててどれが嘘とかほんとという問題より「カレーには福神漬け」の感覚をつくれればいい。この世界のどこにいても必ず究極のリラックスを瞬時に発揮できるようになってるのをイメージすると楽しい。好きなウクレレの演奏も究極のリラックスの中で歌いたい。こうやって何にもならないことを無駄に集中するとそれに近い感覚がする。集中が究極ってことにもなる。

集中すること、頭や心に残っていてることを生活そのものをつくりだす事もだし、芸術的な事に繋げてたい。大げさに芸術と書いても掃除やお散歩でもそうできる。仕事も選び方や工夫しだいでそうなるのかと思う。異常だと感じることからも、リラックスをつくりだすのは自分自身の創りかたでどんどんと変わっていくと思う。

結局は『世界は自分が創りだしてる』みたいな話になる。けど言葉を経験の中で理解していくことは決まった言葉自体を崩してく、つくられた安心を壊して自分の中で新しくつくりなおした時に腹に落ちてくるものなのかと思う。

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