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リサージュ、迷宮の出口について

こうして文章を書くことは久しぶりだ。
Noteは以前より興味があったが、謂わゆる読み物としてしか利用していなかった。妹にそれとなくNoteに興味があることを伝えると、「糸井重里は嫌いなのよ」とだけ返ってきた。まあいい。僕はほぼ日手帳くらいしか知らないから、彼が好きでも嫌いでもない。きっと妹は糸井重里と酒の席か何かで一悶着あったのだろう(比喩だ)。

まず僕について。
僕は30代半ばで中肉中背。身長は180cmより高く190cmより低い。
仕事は所謂理数系だ。
GAFAのような高給取りでもなく、所謂貧困でもない。
一刻も早くタバコを辞めたい。

僕は大学ではあまり真面目な学生ではなかったし、成績も良くはなかった。
休学も経験したし、ドロップアウトの棺桶に片足を突っ込んでいたと言ってもよい。
専攻は数学だった。今でも八ヶ岳の帰りなどに、気が遠くなるほど長い中央自動車道の渋滞を、時代遅れのマニュアル・トランスミッションの自動車で運転している際に縦波としての渋滞という少々変わった授業をとっていた日々を思い出す。

そもそも僕は、何か将来の仕事に役に立てるために大学を選んだ訳ではなかった。浪人していた頃(世の中では殆ど知られていないが、大学編入専門の予備校と言うものがこの世には存在する。大学編入試験は凡そ6−7月頃に行われるため、3月から3,4ヶ月という短期間で授業を懇切丁寧にしてくれる訳だが、こちらも興味があるコース以外は全て行くのを辞めた)、池袋のジュンク堂で何気なく手に取った岩波全書の田嶋一郎「解析入門」を読んで感動したため、数学科への進学を決めた。

当時した大きな失恋や、在学中に亡くなった父親を亡くした喪失、それとも凡そ10年後に発覚する脳腫瘍の前兆だったのか、とにかく当時の僕には、物事をうまく整理できなくなっていた(今も整理できていないと思うが)。
事実と事実が絡み合い、それぞれの点と点を追っていくことはできた筈なのに、最終的な目の前の事実は僕の知っている純粋で無垢な世界からは切り離され、由縁もなく流れていく出所不明の椰子の実のように感じた。

それともあの頃の僕は、高専を卒業して自身の身分的後ろ盾を喪失した身軽さとはじめて住む東京の排気ガスと春の訪れが混じり合った圧倒的な匂いに陶酔していたのかもしれない。ある意味ではロマンチストだったかも知れない。兎に角「解析入門」に書かれていた無限分割と言ったような初歩的な世界の成り立ちに大変魅了された。
大学では役に立たないことを学びたいと思った。もし自分がその瞬間高専での5年間とは断絶した別の時間軸上に移動していたら、哲学や文学、芸術をやりたかった(そして毎朝、三畳一間の下宿で目が覚める度に、それを願った)。

大学への編入学試験はそれ程難しいものではなかった。電磁気学も応用物理学も不要だった。必要なのは2,3時間解析学と線型代数学の試験を受けること、大学1,2年生の数学の英語教科書を翻訳し、問題を解くこと、簡単な面接を受けること。そう多くのことが求められる訳ではない。
7月には大学が決まり、アルバイト先で新しい恋人もできた。シエスタとも呼ぶべき取り留めもない時間を過ごした。しかし、まとまった金を得ても、あれこれ興味のままに色々な体位を試しても、結局は僕の頭の中の混乱状況は一向に変わらなかったし、むしろ迷宮が深化していくだけだった。
2次元として存在する花園のような迷路を考えていた筈なのに、花の根や、枝葉の曲がり具合、昨日の天気までも考慮に入れて、捉えるべき事象の拡大を行い、それ程上等とは言えない頭をフル回転させなくてはならなかった。
また、内在する混迷は他人を巻き込んでも凡そ理解され難いと大きな失恋で学んでいたことから、表面上装う事実を矮小化し、他人と多くのことを共有しないと心に決めた。

お察しの通り、自身の内なる議論対象の矮小化、拡大縮小は心と体、人間の全部に対しあまり良いものではない。不健康と言い切ってしまって良いと思う。当時の記憶というものを余り多く持ち合わせていない。少なからず居た知人のうち今でも会話するのはごく少数に限られるし、殆どの名前を忘れてしまった。
当時の生活は、綺麗なものも、見聞きするに耐えないものも包含されている、所謂普通の世界であったにも関わらず、僕は多くを軽蔑していた。何者にもなりたくないという欲求だけが残った。
キャンパスまで届く海の匂いと、べっとりとした空気を嫌悪していた。
東日本大震災が輪をかけて不健康な心にのし掛かった。あの日から始めたタバコを僕は今、一刻も早くやめてしまいたい。

このどこにも辿り着かないような長く、細い暗いトンネルに光が射さなかった訳ではない。一過性の眩しい光は、時に皮膚を焼くように心を焦がした。しかしそういった瞬間はいつの間にか通り過ぎていき、まるで何事もなかったかのようにまた暗いトンネルに入っていった。
結果として今そういった日々、現在まで連続している筈の日常をある程度うまくこなすようコントロールできているのは、リサージュのような思考の無限の反芻のおかげなかも知れない。同じ場所を何度も行き来するうちに、微妙な変化、昨日蹴った小石の行方が分からなくなったことを発見するように。

だが、いつか、そう遠くない日に、迷宮の出口は近いと僕は最近やっと感じ始めた。僕を出口に導く存在を強く感じている。そこでは僕は、身体はともかく健やかな心で、海を見ている。信じて話ができる。その存在に包み込まれ、僕も包みたいと思う。今までの人生の殆どが無意味であったのではと思うくらい、強い永続性を感じることができる。

この感情に名前はまだない。今、感情Lと定義しよう。



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