受験/言葉の先行

 僕の高校時代は「言葉の先行」といえる。そもそも、高校生のうちにこのnoteを書いていること自体が「言葉の先行」なのだが、それも高校生のうちだから許されるのだろう。言葉は僕に近づくが、僕は沈滞したままである。言葉は最大まで妥協したが、そこには前に倒れこむだけじゃ届かないのだ。

 なら、努力せねばいけないのだが、それを言葉にすると、全てが僕に先行して、置いてけぼりにしてしまう。それでも、言葉にしなければならないから。だって、僕は高校生だから。

 少し前、どこかで「大学に受かろうが落ちようが納得できる」と言った。これは、僕の現状や身体を鑑みたうえでの言葉だ。けれど、僕の言葉曰く、「大学に受かりたい」らしい。先行した言葉の取捨選択はまだ早い。走ってみて、触れたものが「合格」でなくても、それは別の言葉に接触しているのである。怠惰には触れ続けた。それこそあくびが出るほどに。胸やけを消化するには運動しなければいけない。スマホでは眼球すら動かない。

 指先から注がれた言葉は、必ず僕の身体から生まれている。心の先行に対して、僕はただ停滞し続けただろうか。匍匐を思い出し、電子に言葉を注ぎ切った僕は、その軽くなった肉体を起こすのだ。

おやすみなさい。

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