見出し画像

 あれは女満別空港だったか旭川空港だったか。飛行機に預けた荷物をターンテーブルから回収し、荷物引き取り場を出ると目の前に「イランカラㇷ゚テ」と書かれていたのをよく覚えている。幸か不幸か友達の関係もあり、過ごしやすい夏も吹雪豪雪の冬でも網走などに出かける機会がことのほか多いような気がする。しかしながら、アイヌ語で書かれたものを見るたびにそんな機会が多くてよかったなといつも思うのだ。しかしながら、今アイヌ語は近代と現代のはざまでもがいているように見える。

正体不明の言語

 東南〜北アジアは帰属不明の言葉が多い。朝鮮語(済州語を勘案しない場合)、日本語(沖縄語を勘案しない場合)、ニヴフ語、ユカギール語が挙げられる。アイヌ語もこの仲間といっても差し支えはないだろう。
 今日、アイヌ語の話者の数は正確にはわからない。ただ母語話者は極少数となっているが、北海道で行われるアイヌ語弁論大会「イタカンロー」や各地でのアイヌ語講座の努力も甲斐あって、第二、第三言語として話す人間は、上手い下手は別として、千人くらいはいるのではないかと想像している。
 ところで、日本語や朝鮮語はツングース系の言語も含めて、大きな「アルタイ諸語」という大きな語族を構成するのではないかと学者たちが仮説を提唱しているが実証はされていない。ただし、文法的な考え方はテュルク語も含めて、かなりお互い近いことは事実だと思う。

アルタイ諸語の群れの中の特異点

 しかしながら、そんな「アルタイ」的な言語の群れの中にあって、アイヌ語の特徴は日本語や朝鮮語と全く異なる。アイヌ語はまず語順は日本語と同じ、「主語〜目的語〜動詞」の順番が基本で日本語とあまり変わらない。ただし、中国語のように動詞が時制を持たず、また「ほぼ」語形変化もしない。ただし人称がある。下記の例文は岸本の論文から引用する。

Tane menokopo suke wa ipe=an okere kor...
今、娘が炊事して私たちが食べ終えたら...
(岸本 宜久『アイヌ語の複雑述語における連接と接合』(2017)北海道言語文化研究No. 15, 49-70、 北海道言語研究会)
※"ipe"と"an"の間のダッシュは筆者が"="に直した。

 ここで"suke"の主語は"menokopo"であるため、三人称だ。そのため、動詞は三人称のため、何も人称をつける必要がない。従って、動詞の原形"suke"と三人称の形がイコールとなる。

幅広い「四人称」

 一方で「食べる」に相当する"ipe"の後ろについている"=an"があるが。これは一般に四人称と言われる人称の接尾辞である。
 「四人称」というと言語学に明るい人は「一体誰用の人称なんだ?」と思うかもしれない。実はインドネシア語などにも見られるが「私たち」という一人称複数形には「話をしている『あなた』も含めた包括形」、「話をしている『あなた』を除いた除外形」というバリエーションがある言語がある。アイヌ語もそれに該当し、通常の一人称複数は「除外形」、この四人称が「包括形」として考えられる。
 ただし、ここは推測であるが、「包括形」ではなく「四人称」として捉えていることには理由があると思っている。というのも、「四人称」には単純な「包括形」の機能だけでなく、ドイツ語の"man"やフランス語の"on"のように主語を特定しない不定人称としても機能したり、二人称の敬称としても機能することがある。そのため、単なる「包括形」としてアイヌ語の四人称を捉えられないという側面がある。

近代と現代のアイヌ語とは

 現代を生きる我々にとって日常の専門語彙は必要不可欠である。例えば携帯電話、Eメール、パソコンなどである。学術用語では例えば言語学や環境資源学という言葉も出てくるだろう。さて、これらはアイヌ語で何と言うでしょうか。
 実は答えに詰まる。それはアイヌ語にそれに相当する言葉が普及する前に衰退してしまったためである。そのため、現代のアイヌ語の問題の一つは「そのような現代語彙や専門用語をどのように表現するか」ということだと思う。日本語や他の言語から借用するのか、それともアイヌ語の語彙から作り上げるのか、そして「誰が」その単語を正式なアイヌ語として認めるのか、という各種プロセスに問題を抱えているのである(私がアイヌ語を書くときは基本、日本語からの借用で済ませる)。

アイヌ語のススメ!

 日本人はグローバル時代にあって日本語か英語かで日本の内外を切り分ける悪習がある。しかしながら、世界はそれだけで切り分けられる程単純ではなく、日本国内にあるアイヌ語ですら、ユーカラで語られているように豊富な神的世界観・文化観を持っている。アイヌ語は言葉だけでなく、文化も学ばないと非常に中身のないアイヌ語になるのだ。従って、アイヌ語を勉強することにより、アイヌ語と同等に英語や他の言葉一つを勉強するということ自体が実はとんでもない重労働であるということに気づくことができるのである。日本人は英語を勉強するが、言葉だけで中身が抜け落ちていないだろうか。それを体感するために、アイヌ語はもってこいの「日本語」なのである。


資料や書籍の購入費に使います。海外から取り寄せたりします。そしてそこから読者の皆さんが活用できる情報をアウトプットします!