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岩波書店から発売された『声で楽しむ美しい日本の詩』という本を買うたけど、この本はアタリやな。過去から現在までの古今東西、数珠玉みたいな、きれいなことばがぎょうさん収録されてはるで。

静かなる関西弁

注目したいのはあまり知られておらん、古語や文語体の作品だけやなしに、口語体の方言詩も含まれてはることや。

この本のタイトルにあるように、ことばの素朴さや作者の生き生きとした息遣いは文字の中にあって、声に出さへんと体験することはごっつい難しいと思うで。

阪田寛夫の『葉月』はほんまにそれや。大阪弁で書かれた詩やけど、大阪の「騒がしい」「うるさい」「賑やかな」関西弁のイメージにひきづられてこの詩を読んだらあかん。この言葉をしゃべっている主体の微妙な感情を読み取ることが難しくなるんとちゃうと違うの。

それじゃあ、どうしたらいいんやろか。答えは単純で、「声に出して読んでみること」になる。この本に出てくる詩は「音に立ち帰り読んでみること」が重要やと思うで。

ソシュールと松尾芭蕉

ところで音といえば、西洋の近代言語学で20世紀初頭にフェルディナン・ド・ソシュールが講義で、意味内容の「シニフィエ」と表現の「シニフィアン」を定義しはって、言葉をシーニュ(記号体系)のように観察するようになったんや。音自体/書かれたもの自体とその意味に分割しはって、言葉そのものについて考えるようになったんやな。

せやけど、それと類似した点について、日本では俳人や国学者が研究をしはった伝統があるで。学術理論という点ではソシュールに負けてしまうけど、特にな、日本語の詩作における音について厳しく考えてきてるのは、著名な俳人の松尾芭蕉だと思うわ。芭蕉の詩の理論を自身で遺しはったもんはないようやけど、ソシュールのように弟子が彼の俳句についての考え方を伝えてはるで。

代表格は『去来抄』になるさかいに。彼の弟子の一人やった向井去来は芭蕉から「舌頭千転」と言われておって、詩作に詰まったら言葉に何度でも出して確認することを主意されたり、新奇な言葉遣いを怒られとるんやわ。

例えば、去来は「花の森」と言う言葉を俳句に使用したんやけど、「森の花と昔の人たちも言っている」って芭蕉にクレームをつけられとるんやわ。「詞を細工して、かゝる拙き事、云べからず(言葉を細工して、そんなつまらないことを言うんじゃない)」と。たいがいにせえよって。

音の重要さ

文語で言葉を組み替えたり、新しい言葉を導入しはるのは面白いことやわ。せやけど、口語に関して言うと、今みんなの話している、そのままのことばを使わんとアカンので、もっと音の感覚が重要になってきはる。その意味でその音が何を表そうとしてはんのか、素音の語調はどうなんか、などなどがより重要になってくると思うで。

今はSNSが発達して、より音のないドライなコミュニケーションが発達してるし、またコロナの影響で対面での会話も避けられとるのも大きいんとちゃうかなと思うけれど、そんな世の中で、自分の舌の音に立ち返ってみることは、ごっつい意味があると思うで。いや、知らんけど。

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