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(読書)外国語の学び方

どんな時代であろうともどんな人であろうとも、語学に関しては同じ悩みを持ったり、語学の先達者からの意見が自分の学びの励みになったりすると考えます。

文章のところどころからそのような印象を覗かせるのは、岩浪新書の渡辺照宏『外国語の学び方』です。もはや古典の語学本となっている本ですが、新しい言葉を学ぶことは普遍的なことがらです。語学にたずさわる環境や教材は絶えず変わりますが、新しい言葉を学びたい、学ばなければならないというニーズや欲求は変わらないものの一つといえます。

著者の渡辺さんは仏教学者という異色の経歴の持ち主です。最後のページには英語から始まり、ロシア語やアラビア語、サンスクリット語の短い概説のようなページがついております。もともと帝国時代の東大のインド哲学科を卒業されて、ドイツに留学しています。

「無花果の樹の林に行って花を求めてもむだであるように、様々な生存形態(有)の中に実体を求めようとしない出家修行者は、此岸をも、彼岸をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように」スタッニパータ 渡辺照宏(訳)

『ワイド版世界の大思想 第3期(2) 仏典』の「スッタニパータ"蛇"」を読むと、彼の和訳はすっきりとした印象を受けます。そのため、彼はサンスクリットやパーリ語のような、構造が違う言語でも、すんなりと理解できる日本語に組み替えられるような語学力があったのでしょう。

「学者だから」と言ってしまえばそれまでですが、学者はあくまでも人間。人間は私たちと同じことです。ですので、「学者だから語学がうまい」。従って「人間、私は語学がうまい」というのは成り立たない理論です。

そのため、「学者だから語学がうまい」はあくまで結果論と言えましょう。学者になるためにはそれなりの努力が必要です。人文系・文献系の学者になるためには、そこに語学も含まれることでしょう。そう考えると、学者になれるのも語学がうまくなるのも、最終的には努力が大きく影響していると言えます。

語学は時間をかければかけるほど結果が良くなる分野です。彼の仏教学の著作集やこのような翻訳読むと、彼の努力がかいま見えるような気がしてきます。


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