「じーじ。僕、頑張るよ。」

「じーじが本当にヤバイかもしれない。覚悟しておいて」

遠い異国の地で聞かされたのは、自分にとって初めての身内の人生の不幸を予感させるものでした。

2020年12月。当時僕はフランスでソムリエとして働いていましたが、ご存知の通りコロナ禍の影響でレストランはほぼ営業ができない状態に。色々やろうとしていたことも全て計画が破綻し、『このままフランスにいるよりも一度日本に帰国してしまうのもいいかもしれない』なんてモヤモヤした日々を送っていました。

そんな時の一報。あまりにも非日常すぎて理解ができませんでした。容態が悪くなってるとは聞いていたけど、こんなに急に?

理解が追いつくことはなかったけど、自分の未来は決まりました。

日本に、帰らなきゃ。


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僕の両親が若くして結婚したこともあり、祖父母も同世代と比べてかなり若い家庭に生まれました。小さい頃は祖父母が僕を連れて歩いていると「お子さんですか?」って言われるくらい。

一緒に住んでいたわけではなかったけど、家も遠くない距離にあったので定期的に会っては旅行に行ったりご飯食べたりする中でした。

一代で築き上げた塗装屋の社長。でもそんな地位を大きく見せることもなく、いつも朗らかな祖父が大好きでした。ちなみに体重と横幅は大きかったです。

いつも会いに行くと焼酎をお湯わりで楽しみ、僕が18で海外生活をスタートさせた時に「しばらく会えなくなることを一番悲しんだのは祖父だったらしい」ということを後から聞かないと全く分からないくらいには豪鬼な薩摩隼人でした。


なかなか日本に帰って来れるタイミングは無かったけど、帰ってくるたびに近況報告をしてました。「次はこんな国に行くんだー」とか「今はこんなことやってるんだー」とか。決まって言われるのが

「お前は何を目指してるんだ(笑)」

そんなたわいもない会話が大好きでした。

いつまでも、とは言わないけど。
もうちょっと長い間こんな会話ができるものだと。
そう思っていました。

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コロナ禍における病室の面会は、通常の時とは比べ物にならないくらい困難を極めました。一回につき面会できる時間は数十分で2名限定。しかも当時は今以上に東京から来た存在を疎ましく思う状況下での帰省。色んな意味で神経をすり減らす期間でした。

結局帰国できたのは4月上旬。そこから2週間の隔離を終え、実際に病院に行けるようになったのは5月の中旬ごろ。

あれだけ大きかった祖父の体は…本当に、本当に細くなっていました。
「内緒でこっそり行って、祖父を驚かせよう」なんて。結果自分が驚かされる羽目に。

でも思った以上に歩けていたし、問題なく話もできる。日によって体調が悪くなってしまう時もあるけど概ね元気には見えました。いや、今考えると元気に見せていたのかもしれませんが。

数週間の帰省後、さすがにずっと実家にいるわけにも行かないので、東京で個人事業としての活動を増やしながら時々祖父に会いに行く生活。このタイミングで芸能事務所に入ったりフリーランスのソムリエとして活動を開始したりしていました。

ただ、正直なところ。この期間の仕事はどうしても気持ちが前を向けていなかったのを覚えています。もちろん仕事としては全力で取り組むのですが、全てにおいて『今僕はこんなことをやっていていいのかな…』なんて朧げな不安が常に包んでいるような。考えても答えが出ない問題に頭を悩ませてばかりでした。

そんな中、祖父がようやく退院できたとの報告。タイミング的にも問題なかったため急いで帰省すると、いつも以上に元気な祖父の姿が。唯一の娯楽だってことで颯爽とパチンコ屋さんに駆け込む後ろ姿。

…この瞬間、朧げな不安は形を帯びて僕に襲ってきました。『燭滅せんとして光を増す』。燃え尽きる前の蝋燭は、最後に大きく火を広げます。とても元気に見えるその姿が、大きく燃え上がってるように見えた…そんなことはもちろん口に出せませんでしたが、本当に向き合わなきゃいけない時期が来たと、強く思いました。

そのせいで、なんて言い訳にしたくはないのですが。少しずつ形になりかけていたお仕事を何個かダメにしてしまいました。取り返しのつかないほどではないにせよ、再起を図るのが億劫なほどにはメンタルが沈んでいたような気がします。あぁ、自分はこんなにも脆いものかと。

香港滞在に初日からホームレスになった時も。
マカオでポーカー爆勝ちした夜に財布を紛失した時も。
フランスで詐欺られた時も。

自分が原因で自分だけに被害があるものは「これも経験だ」と楽しめました。海外を8年ほど経験して、強くなれたと思ってました。そんなわけなかったのに。


…形を帯びて襲ってきた不安は、すぐに現実のものとなりました。

緊急搬送。危篤状態。
ほとんど会話もままならない状態に。
なんとか面会ができても、かろうじて生きているだけ。
声をかけることすら、躊躇われるほどに。

この頃には、東京で芸能のお仕事も少しずついただけるようになり、今まで以上に移動がしづらい日々が続いていました。とはいえ所属したばかりの人間。「別な人でも問題ないが将来のためになる仕事」と「自分のを満たすだけの僕じゃなきゃいけない私用」を天秤にかけて行動するには、あまりにも自分が未熟でした。


そんな時に、少し元気になって食事会に行ったときの祖父の言葉を思い出しました。

「お前は何を目指してるんだ?」

人生を悟った大先輩からの言葉は、その残り少ない文字数にどれだけの思いを込められているのかを僕たちが判断しなくてはいけません。

僕が目指しているのはなんだろうか。
今自分がしたいと思っているのは覚悟を持ってできてるのだろうか。
口だけの憧れで、覚悟が決まってなかったのは僕じゃなかったのか。

それが決して意図したものではなく、あの時みたいな雑談の中の一言だったとしても。僕が決めたのは。



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通屋は無事に行われた、そうです。
最後は静かに息を引き取った、そうです。

僕は自分の人生を歩むことを決めました。
その日は奇しくも、僕が初めて収録に参加できた番組の放送日でした。


正直、今これを書いている時でも感情が爆発しそうになります。
後悔がないなんて、全く言い切れないから。

今でも自分の過去がこれでよかったのか、今自分が向かっている目標は本当に正しいのか不安になる時もあります。

それでも今は、今まで以上に誇れる孫でいられるように、頑張るだけ。ですよね。


だから。

ありがとう。

じーじ。僕、頑張るから。

天国で見守っててください。



文章苦手ながら頑張りました!